創竜伝03 逆襲の四兄弟 田中芳樹 ------------------------------------------------------- (テキスト中に現れる記号について) 《》:ルビ (例)遥《はる》か未来に |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)単身|赴《ふ》任《にん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] [#途中に出てくる天野版の挿絵は小説の流れとギャップが大きいと思われるのでコメントにした] [#挿絵を復活する場合は、『[#天野版挿絵 』と『]』を削除のこと] ------------------------------------------------------- [#天野版挿絵 ] 目次 第一章 怪しい隣人 第二章 危険な隣人 第三章 毒蛇たちの都 第四章 バトル・オブ・ロッポンギ 第五章 戦車が道をやって来る 第六章 |真夜中の破壊者たち《ミッドナイト・デストロイヤーズ》 第七章 おさわがせにもほどがある 第八章 滑走路 第九章 風を見た 第十章 八ッピーエンドはいつのこと 竜堂兄弟座談会 [#改ページ] 『創竜伝3〈逆襲の|四兄弟《ドラゴン》〉』——おもな登場人物 竜堂《りゅうどう》始《はじめ》(23)  竜堂4兄弟の長兄。責任感ある竜堂家の家長。           正体は、東海青竜王|敖広《ごうこう》。 竜堂《りゅうどう》続《つづく》(19)  竜堂4兄弟の次兄。上品な物腰の美青年。           正体は、南海紅竜王|敖紹《ごうしょう》。 竜堂《りゅうどう》終《おわる》(15)  竜堂4兄弟の三弟。好戦的なヤンチャ坊主。           正体は、西海白竜王|敖閏《ごうじゅん》。 竜堂《りゅうどう》余《あまる》(13)  竜堂4兄弟の末弟。潜在的超能力は最大。           正体は、北海黒竜王|敖炎《ごうえん》。 鳥羽《とば》茉理《まつり》(18) 竜堂兄弟の従姉妹《いとこ》。明朗快活な美人 鳥羽《とば》靖一郎《せいいちろう》(53)茉理の父。始らの祖父の興した共和学院の現院長。 水池《みずち》真彦《まさひこ》(29) 陸上自衛隊第一師団二等陸尉。不良自衛官である。 虹川《にじかわ》耕平《こうへい》(29) 警視庁刑事部理事官。水池の旧友。 蜃海《しんかい》三郎《さぶろう》(29) 国民新聞資料室次長。共和学院時代、虹川の同期生。 花井《はない》欣子《きんこ》(37) 竜堂家の隣人。4兄弟を目の敵にしている。 蜂谷《はちや》秋雄《あきお》(51) 元警察官僚。東京産業大学教授。 田母沢《たもざわ》篤《あつし》(72) 医薬界の大ボス。生体解剖を趣味とする。 レディL(パトリシア・|S《セシル》・ランズデール)(28)           マリガン国際財団参事。四人姉妹《フォー・シスターズ》の手先。 ウォルター・|S《サミュエル》・タウンゼント(42)           四人姉妹《フォー・シスターズ》の極東地区前線司令官。 [#改ページ] 第一章 怪しい隣人       ㈵  黒と紅が画面に乱舞していた。光彩と色彩がひらめき、もつれあい、画面を見る者の視界を白く、黒く、さらに赤く染めあげた。  三六インチのサイズを持つ、大型VTRプロジェクターの画画である。そこに映し出された光景は、事情を知らなければ、巨費を投じて製作された映画のクライマックス場画としか見えなかったであろう。  摩天楼《まてんろう》群がそびえたつ巨大都市の夜景がひろがっている。ありふれた、それはそれで美しくも見える光景であったが、中心部には異様な物体があって、二〇世紀末の光景であることを否定するようであった。深紅に光りかがやく長大な生物。ビルの大きさと比して、その生物の大きさは信じがたいものであった。それは伝説や神話のなかにしか棲《す》んでいないはずの、「竜」と呼ばれる聖獣であった。  プロジェクターが置かれた部屋は、学校の教室ほどの広さを持っていた。調度の高価さは、むろん比較にならない。重厚で、色調も沈んだ雰囲気がかもし出されている。会議室と談話室との中間的な性格を持っているようであった。四人の男と、そしてもうひとりの男が、その部屋にいた。  灰色の影を背負ったように見える四人の男は、王侯《おうこう》のような態度で安楽椅子に身をゆだね、五人めの男は臣下のように床にたたずんでいた。五人めの男が鄭重《ていちょう》に他の四人に語りかけた。 「これがつい先日、太平洋の西北の隅にある島国でおこった事件の映像です。ご満足いただけましたでしょうか」  彼の名は、ウォルター・|S《サミュエル》・タウンゼントといった。「四人姉妹《フォー・シスターズ》」と称される巨大財閥連合体の、極東地区総支配人であり、アメリ力合衆国の政・財・官界にあって、有能な中堅テクノクラートたることをうたわれる人物である。  彼に対する四人の男は、兄弟のように似ていた。顔だちや体格に微妙な差はあったが、いずれも端正な容姿の、中年から初老にかけての年齢で、高価だが地味な服装にも、皮肉っぽい知性と支配者的な素質とを印象づける態度にも、よく似た雰囲気があった。実際、彼らは曽祖父母や祖父母の世代に、たがいに婚姻《こんいん》関係をむすび、血を交換しあっていた。彼らのファースト・ネームに、さしたる意味はなく、ファミリー・ネームが世界的な意義を持っていた。ロックフォード、マリガン、ミューロン、デュパンというのが、彼らの姓であった。 「お前の見解はどうなのだ」  四人のなかのひとりに問いかけられたタウンゼントは、自信と落ち着きのなかに、かるい緊張をこめて、声調をととのえた。 「所期の目的は完全に達せられたと申しあげてよろしいかと存じます、大君《タイクーン》」  複数形を便わず、タウンゼントは四人をまとめてそう呼んだ。灰色の影を負った四人の男たちは、顔の筋肉細胞ひとつ動かさず、タウンゼントに話を続けさせた。 「まず第一に、ドラゴンが実在するという事実を、人類多数の目に明らかにすること。そして第二に、ドラゴンが危険で破壊的な存在であり、人類とその文明にとって許すべからざる敵であり、抹殺すべき害獣であると信じこませること……以上がこのプランの目的でした」 「第一の点はよろしい。たしかに成功したようだ。だが、第二の点は確実かな」  灰色の影を負った男が念を押した。タウンゼントは背筋を伸ばし、やや演技がかった身ぶりで、VTRの画面を指さした。彼の指先で、魎東の経済大国が誇る摩天楼群は、むざんな炎上と崩壊をつづけている。 「あの光景をごらん下さい。私に言わせればマンハッタンの猿まねにすぎませんが、あの高層ビル群は、一部の日本人にとって金力と技術力の象徴だったのです。あの悪趣味な都庁ビルを美の権化だと信じる物ずきもおりました。エンにして一兆という損害を与えられ、死傷者も一〇〇〇人ではききません。すくなくとも日本人は、ドラゴンに対する恐怖と憎悪をいだいたこと疑いありません」  たたみかけて|TV《テレビ》や新聞、雑誌で情報操作をおこない、ドラゴンが悪であるという観念をたたきこむ。日本人は国をあげて反《アンチ》ドラゴンに突き進むだろう。タウンゼントはそう説明した。 「だが、意外に死者はすくなかったというではないか。ことに子供の死者がいなかった。これは失敗とはいえんのかね」 「深夜のビジネス街とあれば、子供の死者がいなかったのは是非《ぜひ》もございません」  完襞を求められてはこまる、と言いたかったが、口には出せなかった。男たちは意味ありげに視線をかわしあった。ひとりが冷笑をふくんで指摘した。 「フェアリーランドとやらにドラゴンを出現させるべきだったな。そうすれば、女子供の死者が多量に出て、ドラゴンに対する恐怖と憎悪は、より深刻なものとなったはず」  日本人の小物どもが、フェアリーランドを、リュードー・ブラザーズの襲撃場所に選んだのは正解ではなかったのか。やりかたの姑息さはともかくとして。そう指摘されて、タウンゼントは身をこわばらせた。 「それと、飛行船の件だ。一〇〇〇万都市の中心部で大型飛行船が爆発したとあっては、ふん、事実を隠しようもないわ。お前らしからぬ不手際《ふてぎわ》よな」 「何とも弁解しようがございません」 「日本政府に借りをつくることになったことを忘れるな。日本の首相め、合衆国の弱みをにぎったつもりで上機嫌というではないか。貿易法案で一時的な譲歩を要求してくるやもしれん」  ひとりが口をとざすと、べつのひとりが交替してタウンゼントに問いかけた。 「あの首相がドラゴンについて真相を知りたがるということはないかな、タウンゼント」  ひさしぶりに、タウンゼントの表情に余裕がもどった。 「いえ、あの首相は、金銭がからまないできごとを理解する能力に欠けておりまず。枢機《すうき》を教えてやったところで、何のことやらわかりますまい」 「たしかにな」  悪意をこめた薄笑い。 「権力ほしさに政治家になった者などいくらでもいるが、最初から私腹を肥やすために地位を欲《ほっ》して、一国の首相にまでなりおおせた者はそう多くあるまい。世紀末の奇観だな……」  沈黙がおりかけたが、タウンゼントの意気ごんだ声がそれを破った。 「ヴラド計画《プラン》も着々と成功を見ております。日本の、とくに若い世代に、社会心理学でいうファシズム型性格を増大させるという点では、私どももおどろくほどの効果が……」 「けっこう……」  冷然と、大君《タイクーン》のひとりがさえぎった。 「だが、日本人の精神的荒廃に関するお前の講義は、べつの機会に聞かせてもらうとしよう。今日はもう退《さ》がってよろしい」  許可を与える形での命令であった。熱弁を未然に妨《きまた》げられて、タウンゼントは一瞬の半分の間、不本意そうな表情をつくったが、たくみにそれを隠すと、VTRを消し、うやうやしい一礼を残して退出した。       ㈼  四人の大君《タイクーン》は、ゆったりとした動作で安楽椅子にすわりなおした。タウンゼントの姿をのみこんだマホガニーの扉に視線を送って、ひとりが低く笑った。 「奴は、われわれが世界の支配者だと信じておるだろう。そして自分がその重要な廷臣《ていしん》であると思いこんどる」  すると、べつのひとりが、皮肉な光を目に、皮肉な影を口もとにたたえた。 「そればかりか、われわれに取って代わることを考えているかもしれんぞ」 「かもしれん。ふふふ、物事の表面しか見えぬとは幸福な奴よ。下僕《げぼく》の頭《かしら》という地位が、それほど偉大に見えるか」  灰色の影を背負った男たちは、隠微《いんび》なほどのわずかな笑声をたてた。大声で笑って、誰かに聞きとがめられることを恐れているかのようであった。 「だが、われわれは人界《じんかい》の優越者であるにはちがいない。べースボールの監督《マネージャー》のようなものだ。グラウンドにいるかぎり、そしてオーナーの意に背《そむ》かぬかぎりは、権力をふるうことが許されている」 「そのとおりだが、何をいまさらわかりきったことを口にするのだ」 「ときには、自分の置かれている立場を確認してみるのもよかろう。でないと、人間の弱さあさましさで、借りているだけにすぎぬ力を、自己の力と過信してしまう。あのチョビひげの伍長《ごちょう》のようにな」  歴史上の人物を、まるで下町の庶民のように口にする。 「反ユダヤ主義も領土拡張も、ほどほどにしておけば、中部欧州ぐらいくれてやったものを。欲の深い貧乏人にも、こまったものだ」 「過去のことより現在のことだ。ひとつ決めておかねばならぬことがあった。フォレスターが再選を望んでおるが、奴をどうする」  下僕のように呼びすてられた男は、現在、ホワイトハウスの借家人という身分であった。 「一期かぎりだな。中央情報局《CIA》という巨大組織をよく運営していたから、できる男かと思ったが、ふん、しょせん火つけ強盗どもの親分だ。やることなすこと下衆《げす》で、しかもそれをタフネスだと勘ちがいしとる」 「西欧各国の政府からも苦情がきとる。自由世界の盟主たる合衆国大統領が、ロシアの書記長より風格がないようではこまる、とな。一期だけホワイトハウスに住まわせてやって、報奨《ほうしょう》は与えた。これ以上、奴の分にすぎた処遇をしてやる必要もあるまい」 「代わりは誰にする? ミシガン州知事のハリスンか、上院のウィンフィールドあたりか?」 「これまで保守色が強すぎた。毒を薄めるためだ、リベラル派に人気のあるウインフィールドでどうかな」  ごく気軽に、いくつかの事項が決定されていった。ハイスクールの野球部長が、新人戦の出場選手を選ぶよりも簡単そうに見える。実際、四人の男にとって、それ以上の意味もなさそうであった。 「ウィンフィールドは財政基盤が弱い。この二年間に、一〇億ドル単位の援助を出してやる必要があろう」 「それはかまわぬ。犬でも馬でも、飼えば餌をやるのは当然のことだ」 「では決まりだな、ひと息いれるとしようか」  コーヒーが運ばれてきた。うやうやしく従僕がひきさがると、四人は先刻の話を再開した。  ドラゴンが破壊と殺戮を好み、絶対的な悪の権化であること、人類の社会と文明にとって、許容すべからざる敵であること、それを日本人のみならず全人類に教えこみ、信じさせねばならぬ。  それが世界の支配権に関して、どのような意味があるのか。  四人の男——ロックフォード、マリガン、ミューロン、デュパンの姓を持つ四人の男は、しばらくの間、コーヒーの芳香をただよわせる室内に静けさが満ちた。煙草を吸う者はひとりもいない。煙草は彼らの商品であって、嗜好《しこう》品ではなかった。有害とわかっているものを喫って自ら呼吸器をそこなうような者に世界を動かす資格はないのである。やがて、思慮ぶかげな声が静けさを破った。 「タゥンゼントの言《げん》が誇大でなければ、ドラゴン・ブラザーズは遠からず日本人たちの手で祖国から追放されることになるだろうが……」 「干渉があると思うか?」 「さて、われわれのレベルでは見当がつかんな。だが、気に病《や》んでもはじまらぬ。われわれの手に負えぬことは、あの方のレベルで処理されるだろうて」  窓の外に、歴史の重さと建築美術の端正さを感じさせる街並が展《ひろ》がっている。世界資本主義の心臓部がニューヨークであるとすれば、頭脳はこの美しい小さな都市だった。スイス連邦の中央部に位置するチューリヒは、人口だけからいえば東京都の一区にもおよばない。  西側世界全体を支配するといわれる四大財閥、四人姉妹ともRMMD連合とも称される巨大な共同体の首脳たちは、寒暖の差が激しく、騒音に満ちたニューヨークをいとい。清浄な空気と爽涼《そうりょう》の気候にめぐまれたこの都市にオフィスをかまえているのだ。西側世界の事実上の首都は、アルプス山中にあった。       ㈽  この年夏、あやうく東京を壊滅させかけた兇悪な四人組は、チューリヒから東へ、人間の足で二〇〇〇万歩ほど離れた場所に住んでいる。行政的には日本国東京都中野区という。近くに哲学堂という公園があるが、この公園をつくった人は高名な仏教哲学者で、旧《ふる》い迷信を打破するために妖怪や幽霊の研究をおこない、「妖怪博士」と呼ばれた人である。  また、すこし東南へ行くと、江戸川乱歩の小説にでも登場しそうなドーム型の建物がそびえている。野方《のがた》給水塔といって、建築学の方面ではけっこう有名な存在らしい。  まだ緑が多く、家々に生垣や樹木が残る静かな住宅地の一角に、竜堂《りゅうどう》家はあった。今日の住宅事情からいえば、庭も広く、家も大きい。ここに四人の兄弟が住んでいた。  長兄の始《はじめ》は二三歳、本来は教師だが、現在は失業中である。次兄の続《つづく》は一九歳で大学生、三弟の終《おわる》は一五歳で高校生、末弟の余《あまる》は一三歳で中学生。八月のある日、それは新宿新都心が深紅の竜によって炎上した夜から三六時間後のことであったが、彼らは居間のソファーに陣どって、TVの画面に見入っていた。チューリヒで大君《タイクーン》たちが見ていたものと大差ない映像だった。異なるのは、興奮した日本語のナレーションがはいっていることである。 「……皆さん、竜は実在したのです。空想上の怪物と思われていた竜は実在しました。ああ、おどろくべきこの事実! それにしてもこの兇暴さ、破壊欲の権化ともいうべきこの姿! まさに人類の敵と申せましょう」  三男坊の終が感心したようにつぶやいた。 「そうか、おれたちって人類の敵だったんだ」 「意外な事実だね」  と末っ子の余が重々しくうなずく。 「いままでのおれたちは、まちがった生きかたをしていた。これから悔いあらためて、ちゃんと人類の敵らしくふるまわなきゃな」 「具体的にどうするの?」 「まず東京タワーと国会議事堂をぶっこわす。ついでに首相官邸も踏みつぶすだろ。あと、東京だけこわしてちゃ不公平だから、大阪と名古屋にもサービスしなきゃ……」 [#天野版挿絵 ] 「でも、それだと、一咋日《おととい》までやってたことと、ほとんど変わらないよ」 「うーん、そうか。やっぱり宿命ってやつだな。おれたちって無慧識のうちに人類の敵としての義務を果たしてたんだ。悲劇的な血のなせる業《わざ》だなあ」 「何が悲劇だ、だまって聞いてれば」  終の頭をこづいて、始が叱りつけた。次男の続は、白い優美な顔に苦笑とも自嘲ともつかぬ淡い波動をたたえたまま沈黙している。新都心を炎上させた紅竜の正体は、彼なのである。  こづかれた終が長兄に抗議した。 「でもうっかり外にも出られないしさ、よたを飛ばしてるぐらいしかやることねえもん」 「ビデオでも借りてこい。それぐらいなら家から出ていいから」 「じゃ行こうか、余」 「うん、でも、始兄さん、茉理《まつり》ちゃんが昼食《おひる》をもって来たらちゃんとぼくたちの分、残しててね」  にぎやかに騒ぎながら、年少組は玄関へと走り出ていった。走るにしても、まるで体重がない者のように軽やかで、どたどたと足音をたてたりしないのが、竜堂兄弟らしさである。 「やれやれ、あいつらときたら、竜形にならなくとも、東京じゅうを焦土にしてしまいかねんな。子供の皮をかぶった水爆だぜ、まったく」  兄の言葉に、ちょっと類のないほどの美貌の持主である弟は、わずかに笑ってみせた。 「TVや新聞を見てると、生きた水爆を追放する運動が急速に盛りあがりそうな気配ですね。どう対処します」 「考えるまでもないね」  ごくあっさりと、長兄は言ってのけた。 「日本が滅びるか、おれたちが滅びるか、そんな状況になれば、おれたちは日本を減ぼしたって生き残るさ。だが、まあ、先走ることもない。なるべく正体が知られないようにしたいし、知られても共存する方法だってあるかもしれん」  いったん言葉を切ってから、ずばぬけた長身の兄は、やはりさらりとした口調でつけ加えた。 「日本人のほうが共存を望むなら、だがな」  お隣の竜堂家の兄弟は、どうも普通とちがっている、と、花井《はない》宗彦《むねひこ》氏は考えている。べつに悪意を持ってそう考えているわけではなかった。小さいが歴史のある出版社で、百科事典の編集をしている花井氏は、何となくそう感じているのだった。  ある日、たいそう元気のよい、弟ふたりの歌声が聴こえた。  殷《いん》、周《しゅう》、秦《しん》、漢《かん》、三国《さんごく》、晋《しん》  南北朝《なんぼくちょう》、隋《ずい》、唐《とう》、五代《ごだい》  宋《そう》、元《げん》、明《みん》、清《しん》、中華《ちゅうか》民国《みんこく》  中華《ちゅうか》人民《じんみん》共和国《きょうわこく》ッ  歴代の中国の王朝や政権の名を、「もしもし亀よ」の曲にあわせて歌っているのだ。これはもともと受験生の間でつくられていた替え歌だが、やたらと調子がよいので、若い世代に流行している。  なにしろ七五調四行の歌になら、何にでもあうようにできている。「蛍の光」、「荒城の月」、「どこかで春が」、「花」、「予科練の歌」、「ハリマオ」、「我は海の子」「みどりのそよかぜ」、「めだかの学校」、「夕やけこやけ」、「うれしいひなまつり」、「おおスザンナ」とたてつづけに歌いまくられて、花井氏は頭が痛くなった。  ちなみに、「ハリマオ」の曲で歌った場合には「中華人民共和国」の後に、「中国、中国、大国でも中国」という、ほとんど意味不明のリフレイン部分がつく。このごろ、花井氏も洗脳されてしまったらしく、入浴中にそれを口ずさんでいる自分に気づいて赤面するのだった。  ところで、花井氏の夫人は欣子《きんこ》というが、隣家の四人兄弟に対して、まったく好意を持っていなかった。何かにつけて竜堂家のようすをさぐり、やることなすことに文句をつける。春から夏にかけて、アメリカ東部の名門大学に留学中の息子を訪ねていたが、帰国するが早いか、日本での習慣を復活させていた。その日も、昼食時に夫にむかって、泡をとばして主張したものである。 「あの兄弟は、過激派に決まってるわよ。この前なんか居間で何を話題にしているかと思えば、首相の悪口をいって笑ってるのよ! 無能だとか腐敗してるとか。わたしの尊敬する首相の悪口をいうなんて赦《ゆる》せないわっ」 「それはまあ、いろいろ考えもあるだろうが、お前、竜堂さんのお宅で話している内容を、どうして知ってるんだ」 「庭に忍びこんで聞いたのよ」 「おいおい、それじゃ家宅侵入罪になってしまうぞ。訴えられたらどうするんだ」  夫のあきれ顔を無視して、花井夫人は言いつのった。 「日本人である以上、日本の首相を尊敬するのが当然よ。それを悪口いうなんて、過激派か外国のスバイに決まってるわっ。この前も政府の人がいってたでしょ。国家秘密法がないから、日本はスバイ天国だって。電柱の蔭《かげ》にも、マンホールの蓋《ふた》の下にも、公衆トイレの天井裏にもスパイはひそんで、日本をねらっているのよっ」  公衆トイレに天井裏があるのだろうか、と、花井氏は思ったが、口には出さなかった。夫人は三杯めのご飯をよそいつつ、手よりもいそがしく口を動かした。 「それだけじゃないの。この前の雨の夜なんか……」 「やっぱり竜堂さんの庭で聞いたのかい」 「そうよ、傘《かさ》を持つのがたいへんだったわ」  雨の夜、他人宅の庭に忍びこみ、傘をさして会話を盗み聞きしている妻の姿が、花井氏の脳裏に浮かんだ。食欲を失って、花井氏は茶碗《ちゃわん》と箸《はし》をテーブルにもどした。 「そのとき、あの兄弟がいったい何をしていたと思う、あなた?」 「今度は副首相の悪口でもいってたのかい」 「ゴジラよ」 「え?」 「旧《ふる》いゴジラの映画をビデオで見て喜んでたのよ。これが赦《ゆる》せると思う?」  妻の怒りを理解することができず、花井氏は眼鏡の奥で目をしばたいた。 「ゴジラの映画がなぜいけないのかね」 「ゴジラは怪獣よっ。ビルをたたきつぶしたり街を焼いたり橋をこわしたりするのよ。それくらい知らないの!?」  むろん花井氏は知っていた。ゴジラがビルを建てたり橋をつくったりしたという話は聞いたことがない。なおも不思議そうな夫にむかって、妻はどなった。 「そういう破壊的な内容の映画を見て楽しんでいるなんて、赦せないとわたしはいってるのよっ」 「しかしね、お前、あれは映画だよ。現実じゃないんだ。ゴジラが実在して街を焼いてまわったら、そりゃ赦せないが、つくりごとのお話じゃないか」 「お話でも赦せないわっ」  花井夫人は絶叫し、唾《つば》とご飯粒を夫の顔にむけて飛ばした。げっそりしてティッシュで顔をふく夫をにらみつける。 「そういうお話をつくったり見たりするという行為、そういう行為をしようという思想が赦せないのよ! 実際にビルがつぶされたり橋がこわされたりすればいいと思っているから、あんな映画をつくったりするのよっ。ゴジラのような映画をつくる者も見る者も、危険思想の持主に決まってるわっ」 「…………」 「だいたい、あなたは何でそう寛大なのっ。ゴジラがこわす橋や道路は、あなたの支払った税金でつくられてるのよっ。それを破壊されて、どうして怒らないのっ」  お前とちがって、ちゃんと現実とフィクションの区別がつくからだよ、と、花井氏は答えた。心のなかで。逆上している妻に何をいってもむだであることを、二〇年以上の結婚生活で学んでいる。そして、しみじみと、自分の忍耐づよさを思いやるのである。 「映画だけじゃない、小説だってそうよ。日本が減亡するだの、東京が炎上するだの、そういう話を書く奴らは、内心で、ほんとうにそうなってしまえばいいと思ってるのよっ。そんな危険思想の持主は、まとめて釣船に乗せて、潜水艦で沈めてしまうべきよっ。自衛隊は何をしてるの、自衛隊は!」 「めったなことをいうんじゃない」  さすがに花井氏は厳しくたしなめた。だが、夫人はけろりとしてポットから急須《きゅうす》にお湯をそそいでいる。夫人は夫に対してどなりつけるだけではない。正義と愛国心に燃える彼女の意見を、匿名《とくめい》の手紙にして相手に送りつけるという楽しみを持っている。ことのついでに、切手を料金不足にしておけば、相手の不快感はいやますというわけだ。 「あのな、お前が正しいことを言ってるんだったら、何も匿名にする必要はないだろう。正々堂々と住所氏名を書いて、何なら内容証明でもとって、きちんと意見を述《の》べればいいだろうに」  夫に忠告されて、花井夫人は勢いよく鼻息を吹いた。 「何ばかなことをいってるの。自分の住所氏名を書いたりしたら、言ったことに責任をとらされるじゃない! いい年をして、そのていどのこともわからないのっ」 「しかしだな、自分の言ったこと書いたことに責任をとるのは当然じゃないか」 「あなたっ! わたしのやることに文句でもあるの! わたしはただ言論の自由を行使《こうし》してるだけよっ」 「言論の自由ってね……言論の自由というのは、正々堂々と自分の意見を述べる権利であって、匿名でいやがらせの手紙を書いたりするのを言論の自由とはいわないよ。あまりにも卑怯《ひきょう》なことじゃないか」 「いやがらせとは何ですかっ。警告よっ。天誅《てんちゅう》よっ。危険思想の持主に、正義の怒りを思い知らせてやるのよっ」 「それほど自分の正しさに自信があるなら、よけいきちんと自分の正体を明らかにすればいい。そして堂々と議論すればよかろう」 「何ばかなこといってるのっ。何でわたしが議論なんかしなきゃならないのよ。負けるに決まってるでしょっ。自分が安全な場所に身を置いて、一方的に相手を傷つけることができなきゃ意味がないわよ。正々堂々と議論なんかやって、わたしが相手に傷つけられたら、あんたが責任をとってくれるのっ!?」  夫人の正義[#「正義」に傍点]の怒りはさらに燃えあがり、話題はさらに社会的になっていった。 「だいたい政治家が賄賂《わいろ》をとって何が悪いのっ。昼も夜も国民のために働いてくださってる政治家の方たちが、賄賂をもらうくらい当然の権利じゃないのっ。たかが五億や一〇億の賄賂で騒ぐんじゃないわよ。貧乏人のひがみよっ。くやしかったら自分も賄賂をもらえるような身分になってごらんっ」 「おれはべつにくやしがってはいないがね」 「くやしがる気力もないのよっ。だから東大まで出て、つぶれかけた出版社で不景気に百科事典なんかつくってなきゃならないのよっ。すこしは反省したらどうなのっ」  自分が傷つくのはまっぴらだが、夫を傷つけることはいくらでもできるというわけだ。花井氏はさすがに憤然として何か言いかけたが、お茶を飲みほした夫人は、さっさとテーブルを立って、夫に背を向けていた。自分が言ったことに責任をとらない、という主義を、ごく自然に実行しているのであった。  花井夫人は、どてどてと幅広の身体を揺すって食堂を出て行きかけたが、不意に立ちどまった。食堂の窓ごしに垣根が見え、さらにそのむこうに人影が動いたのだ。ショートカットとセミロングの中間に位置するヘアスタイルをした若い女性だった。  その若い女性は、竜堂兄弟の叔母の娘で、鳥羽《とば》茉理《まつり》という。一八歳の大学一年生、少女期を脱しかけた年齢で、夏の高原の光が結晶したような、生々とした美しさがあった。差し入れのため、大きな紙袋をかかえて隣家の門をくぐる彼女の姿を見て、花井夫人は三角形の眉をせりあげた。 「まあ、またあの小娘が来て、不純異性交遊をするつもりだわっ。従姉妹《いとこ》が家事の手伝いに来てるというけど、いまどきの娘《こ》がそんな殊勝《しゅしょう》なまねをするもんですか。乱交とか売春とか、ああ、口にするも汚らわしい淫行《いんこう》にふけっているにちがいない。赦さないわよ。世間が赦しても、わたしと正義が赦すもんですか」  夫人は妄想に両眼をぎらつかせた。ゆがんだレンズには、ゆがんだ像しか映らないものである。  闘牛のような鼻息をたてると、花井夫人はリビングボードから玩具の潜望鏡をとり出し、勢いよく玄関に飛び出した。サンダルをつっかけながら、思い出したように夫に呼びかける。 「ちょっと、あなた、わたし今度ワープロ教室に通いますからね」 「かまわんが、何でいまごろ」 「自分で手紙を書いてたら、筆跡《ひっせき》で差出人がわかってしまうこともあるわ。ワープロを使えたら、わたしはいっそう安全になって、思いきり言論の自由を行使できるわけよ。言論の自由を守るためには、たゆまぬ努力が必要なのよ、おっほほほほほほ」  彼女の背後で玄関のドアが閉まり、夫の溜忌《ためいき》まじりの返事は、夫人の耳にも心にもとどかなかった。       ㈿  だが、花井夫人のリュードー・ファミリー・ウォッチングは長くつづかなかった。 「|殺人カボチャの反撃《カウンター・アタック・オブ・キラー・バンブキン》[#なんでわざわざこんなルビを振る必要があるんだか?]」と「死霊のお花見」というVTRソフトを近くの店から借りてきた終と余が、花井夫人の姿を見つけたのだ。新青梅街道を西から東へ、自衛隊の戦車が三両、路面にキャタピラで噛《か》みつきながら、傲然と通過するありさまを、他人ごとのように見物してから、家への角を曲がると、路地にひそんで玩具の潜望鏡をあやつっている、幅の広い蟹《かに》のような人体を発見したのであった。 「あっ、あの痴女《ちじょ》、うちの風呂場をのぞいてやがる」  終が低く叫ぶと、興味深そうに兄の肩ごしに視線を送った末っ子の余が、「なあんだ」とつぶやいた。 「隣の花井さんとこのおばさんだよ、あれ」 「あのおばさん、アメリカの息子のとこへ行ってしまったんじゃなかったのか」 「帰ってきたんだよ。ぼくたち、ここのところとてもいそがしかったから、気がつかなかったけど」 「そうか、アメリカ人からもきらわれて追いはらわれたのか。むりもない。歩く放射能廃棄物だからな、あのおばさんは」  自分が長兄に何と呼ばれているかも知らず、終は、辛辣《しんらつ》な批評をやってのけた。  ……茉理が差し入れてくれた六種類のサンドイッチ、ここへ来てつくってくれた野菜のコールドスープ、フルーツ・ヨーグルト・サラダなどを長男坊と次男坊がテーブルに並べていると、裏庭でひとしきり人声がして、三男坊と末っ子が食堂に駆けこんできた。 「どうしたんだ、騒々しい」 「となりのおばさんが、潜望鏡で風呂場をのぞいてたんだ。追い払ってやったのさ」  終の大声を聴《き》いて、浴室から茉理が姿をあらわした。頭をスカーフでくるみ、夏用のジーンズの裾《すそ》をひざまで折って、形のいい脚をむき出しにしている。 「女が風呂場を掃除してるのを女がのぞいて、何がおもしろいのかしら」 「変態のやることはわかんねえよな。きっと欲求不満で、始兄貴か続兄貴が昼風呂にはいってるところをのぞこうとしたんだぜ」  正義の味方を自認する花井夫人が聞けば、プライドを傷つけられるような決めつけを、終はした。苦笑しただけで、始は、花井夫人を無視した。彼女のような人間を、いちいち相手にしていられない。 「そういえば、ここに来るまで、街のようすはどうだった、茉理ちゃん」 「半分、というより八割がた、戒厳令ね。先進国首脳会議《サミット》のときよりひどいわ。交差点に戦車がとまって、道行く人や車がみんなびくついてるのよ」  茉理の証言を、終と余が補強した。彼らも似たような光景を見てきたばかりだったから。  茉理が終の手もとに視線を送った。 「で、何を借りてきたの?」 「殺人カボチャの反撃!」 「あっ、知ってる、おもしろいんだってね。終君、君はB級映画を鑑賞する眼力があるわよ」 「茉理ちゃん、風呂掃除は後でおれがやるよ。欠食児童どもが叛乱寸前だから、まず食事といこう」  始が提案して、五人は五つの椅子に腰をおろした。食堂という部屋は、人間が口の機能を最大限に活用する場所なので、しばらくは食べること飲むことしゃべることに若いエネルギーが集中した。話題といえば、いっこうに危機感のないものだった。 「日本の年中行事とか習慣とかに、『死霊の』って形容をつけると、いっぺんに笑いごとになるんだよな。『死霊の盆踊り』とか『死霊の行水』とかさ。どうしてだろ」  まあ、こんな具合で、日本はどうなるのか、とか、自分たちはどうすればよいのか、などという話題はいっさい出ない。  にぎやかな食事がすむと、年少組のふたりは「殺人カボチャの反撃」を鑑賞するために居間へ移動した。年長組は応接間のほうへうつって、食後のお茶という形になる。このところ、始は、弟たちと離れると、別人のようにひとりで考えこむことが多く、この日も応接間のソファーに長身を沈めて、自分たち自身のことについて思案しはじめた。  現在、始の弟たちの力は、破壊の方向へのみ解放されている。竜堂兄弟にとっては正当防衛だが、巻きこまれた人々にしてみれば迷惑な話だろう。つぎのように考えても不思議はない。 「他人に迷惑をかけるな。さっさと相手のいうなりになってしまえ。そうすれば、おれたちは迷惑をかけられずにすむ。お前らが殺されようと、実験材料にされようと、どんな目にあったところで、おれたちの知ったことか」  すべては何者かの立てた数式によって動いているのだろうか。始は、いささか不機嫌になった。自分たちの正当な自衛行為までが、何者かの計算と制御のうちにある、というのは、どう考えてもおもしろくなかった。  富士山麓で奇怪な死をとげた船津《ふなづ》老人。その死後に何度も同じパターンで攻撃をかけてきた権力亡者ども。そして、やたらとはでに登場してきたマリガン財閥の代理人たち。彼らはすべて、より巨大で悪辣《あくらつ》な存在の、小さな駒にすぎないのだろうか。  自分たちの出生の秘密を、始は思った。竜王の末裔《まつえい》。敖《ごう》家の一一七代め。三〇〇〇年の時をつらぬく遺伝子の流れ。で……それが何を意味するというのか。竜体に変化し、水や火を御《ぎょ》して破壊をほしいままにする強大な力。それがいま、彼らの世代に発現したことの意味を、始は知りたい。卑小な権力亡者どもと争い、ビルをこわし、一般市民の反感を買うためではあるまいと思う。  ふと視線を動かすと、従妹《いとこ》の顔に出会った。食後のアイスティーを運んできた茉理が、じっと彼を見ている。始はこの信頼すべき従妹に、自分たちの秘密を明かさねばならないだろうと思った。いつまでも隠してはおけない。だが一方で、それを茉理に知らせることは、茉理を危険に近づけることになるのではないかとも考えていた。 「茉理ちゃん、じつはちょっと話が、その、あるんだが」 「楽しい話?」 「じゃないと思う」 「始さんが話したくないのなら、わたしも聞きたくないな」 「……そうもいかないだろう。じつは、茉理ちゃん、おれたち兄弟は変身するんだ。その、竜にね、姿を変えてしまうんだ」  だが茉理は笑顔をつくって、始の、重大なはずの告白を制した。 「いいんじゃないの。酔っぱらって虎《とら》になる人とか、若い女性を見ると狼《おおかみ》になる男とか、人類だっていろいろいるわよ」 「しかしな、茉理ちゃん、そういう比喩《ひゆ》ですむようなていどの話じゃないんだ」 「そのていどのことよ、わたしにとってはね。どんな服を着てても、どんな恰好をしてても、始さんは始さんだもの」  真意は、もっと深刻であるかもしれないが、ことさら明るく軽い口調で、茉理は言ってのけた。 「始さんが化石になったって、骨格標本になったって、わたしには始さんがわかるわ。きっと掘り出してあげるから安心なさいよ」  そういう表現を使って、事態を冗談に近い形でおさめてくれようとした茉理の心づかいが、始にはありがたかった。この従妹は、実際すてきな子だ。 「おや、続はどこへ行ったのかな」  照れかくしのつもりで始は言ったが、実際、続はどこへ行ったやら先刻から姿が見えない。  じつは続は、迷惑な隣人をちょっとこらしめてやるために庭に出ていたのである。一時、年少組の大声にあって退却した花井夫人は、ふたたび潜望鏡を手に、過激派の動静をうかがうべく、敵地に潜入してきていたのであった。続に見つかって、正義の女戦士はうろたえたが、彼女が転進しようとする機先を続は制した。意外な一言が洩《も》れた。 「ぼくは今日、とてもたいせつなことを、あなたに打ち明けねばならないのです、花井夫人」  妖《あや》しいほど謎めいた表情をたたえて、続は花井夫人に近づいた。鼓動の高まりを夫人は意識した。続の白い手が夫人にむかって伸びた。 「花井夫人……」 「あ、あら、いけないわ、竜堂さん」  口では拒《こば》みながら、花井夫人の手は、いつのまにか続の手を鷲《わし》づかみにして離さない。  もしかして、この絶世の美青年は、彼女に恋心を抱いているのかもしれない。そういえば母親もいないし、エディプス・コンプレックスとかマザー・コンプレックスとかいう言葉も古くからある。たとえ過激派でも美青年は美青年だ。いや、この美青年を、誤った道から救い出して心正しい日本人にしてやることこそ、彼女の使命なのかもしれない。続が具体的なことを一言も口にしていないのに、花井夫人は甘美な妄想に心をゆだねかけた。政治でも社会でもそうだが、花井夫人には事実も真実も必要ない。自己満足さえあればよく、自分ひとりが納得していればよい。主観だけで生きられる人種なのである。すると、続の表情が曇った」 「でも、だめなんです」 「え、どうしてだめなの?」 「残念ですけど、ぼく、前世の記憶があって左の手首に桜の花に似た形のアザがある射手座《いてざ》生まれの戦士の方としか交際できない宿命なのです」 「……はあ?」 「あなたはUFOを信じますか」 「え、えーと、あの……」 「フリーメーソンと反《アンチ》キリストが世界を支配しようとたくらんでいます。世界が滅びる日は近い。でも大丈夫、日本に救世主があらわれて、心正しい人類を救うことになっています。あなたは神の恩寵《おんちょう》を信じますか?」  続の目がすわっている、ように花井夫人には見えた。危険信号が夫人の脳裏に点減し、夫人はそろそろと手を引きはじめた。 「あ、ぼくの頭のなかに、大天使が呼びかけてくる。花井夫人、ぼくといっしょに来て下さい。地球の平和を守るレムリアの戦士として、にくむべきクートゥールの邪神と戦いませ[#「せ」に傍点]う」 「あ、あのね、竜堂君、わたし、亭主に昼の餌をやらないとならないの。さよなら、幸せになってちょうだいねっ」  ぱっと続の手を離すと、花井夫人は幅広の身体を揺すり、不幸な蟻の行列を踏みつぶしながら逃げ出した。その後姿を見送って、続は皮肉っぼく笑い、笑いをおさめて家のなかにはいると、やや残念そうにひとりごとをいった。 「あーあ、兄さんとちがって、ぼくには女性運がなさそうですね」  ……遠いいマクロの敵と、近いミクロの敵とをかかえて、竜堂家は、この日、偽《いつわ》りの平和のなかにまどろんでいた。 [#改ページ] 第二章 危険な隣人       ㈵  つぎの日も、午後おそくまでは平穏にすぎた。暑い退屈な一日になりそうだった。竜堂家にいちおうクーラーのそなえはあるが、長兄が人工の冷気を好まないので、めったに冷房をいれることはない。二本のビデオを見てしまい、退屈した三男坊が、書斎にいる長兄に談判にきた。家にこもっているのにあきたから、外へ出たい。そういう弟に、 「几《き》に隠《よ》りて熟眠《じゅくみん》、北ゆう《ほくゆう》[#「ゆう」は「片」偏に「戸」の中に「甫」。この文字を保存するにはUNICODEにしなくてはならず、あきらめて「かな」にする]を開く——さ」  柳《りゅう》宗元《そうげん》の詩句を、始は引用してみせた。夏の午後ともなれば、北側の窓をあけ、そよ風を呼びこんで昼寝を決めこもう。そんな意味である。せっかくの名詩だが、終にかかると、ありがたみも何もない。 「そんな呪文となえてたって涼しくなんかならないぜ。どっか涼しいところへ行こうよ、兄貴」 「外へ出ても戦車と装甲車に出会うだけだからな。おとなしくTVでも見てろ」 「やだね、年寄《としより》は。なるべくエネルギーの消耗を減らそうってんだから」  にくまれ口をたたいて居間へ移ると、次男と末弟が、所在《しょざい》なげにTVの画面をながめている。  TVでは、国会中継がおこなわれていた。声が大きいのと目つきが悪いのとで有名な野党の代議士が、首相の答弁を求めている。竜とやらいう奇怪な生物が首都に甚大《じんだい》な被害を与えたことについて、一国の首相たる責任をどうとるか、というのである。マイクの前に立った首相が、やや金属的な声で答弁を始めた。 「竜が憎くないかと尋《き》かれれば、心のどこかに、憎いなあという感情が動くという事実を頭から否定いたしますほど自分に不誠実であってはならないのではないかな、と、厳粛に自戒すべきことを自らに言い聞かせるていどには、感じるところがございます……」 「ぼくたちが人類の敵だとすると、この人は日本語の敵ですね」  続が苦笑した。首相は、言質《げんち》をとられない名人だといわれる。公式の場で本心を明かすということをしない人だという。誰も知らないうちに、こっそりと準備をし、根まわしをして、いつのまにか実現させてしまう人だという。そのような素質は、近代民主国家の首相よりも、戦国時代の二流の策士にふさわしいかもしれない。 「日本語の敵でもいいけど、一国の首相が上目づかいするなよな」  日本近代史上ただひとり上目づかいが似あう首相だと、なさけない評価もされている。舌打ちした終が、リモコン・スイッチを取りあげて、チャンネルを変えた。  画面に竜があらわれた。一瞬おどろいたが、壁に貼《は》られた絵だった。その絵を背景に、四人の男が語りあっている。竜の伝説がどうの、西洋のドラゴンがどうの、古代メキシコ神話に出てくる|翼ある蛇《ケツアルコアトル》がどうの、と、知識の断片を投げつけあっていた。  またチャンネルを変えると、街頭インタビューの光景が映った。戒厳令同様といっても、六本木あたりはけっこう人出が多く、往きかう人々の表情も、さして深刻ではない。「竜についてどう思いますか」という質問に、人々はそれぞれの答えかたをした。 「ほんとに竜って兇暴で兇悪な動物なのね。生かしておいたら人類の文明そのものがおびやかされるっていうでしょ。ミサイルか何かで殺しちゃえばいいのよ」 「探しだしてつかまえるべきだと思う。殺すのはもったいないから、高圧電流をとおした檻《おり》、すごく大きいやつをつくって閉じこめるといい。動物園に入れたら、世界じゅうから見物に来るんじゃない?」 「あれはきっとネス湖の怪物と同じやつだと思う。やっぱり海の底かどこかに隠れてるんじゃないかな」 「殺しちゃうしかないと思う。だって危険じゃないの。あんなにビルこわしたり火をつけたり、じゃない、吐いたりしてさ。竜なんかより人間がだいじよ」 「えー、あたし、わかんなーい。政府とかのえらい人が決めればいいと思う」 「生かしてとらえるべきだな。そうしたら、いろんな実験ができるはずだ。アメリカやソ連より先に日本が何とかして手に入れるべきだよ」 「あれは自然界の生物とは思えない。遺伝子操作か何かでつくられた人工の生物だと思う。つくったのはナチスの残党、だったらおもしろいな」 「ソ連の陰諜だよ、決まってるだろ!」 「興味がないといえば嘘になるけどお、でも他にももっとだいじなことがあるしい、竜のことばっかり騒ぐことないと思う」 「来年の受験に竜のことが出るかな」  ……つぎつぎと開閉する口の数々をながめて、続がわずかに肩をすくめた。 「言いたいほうだいですね。まあ何とののしられてもしかたありませんけど」  自分が紅竜に変化して、新宿新都心を炎上させたことを、続は知っている。まさか人間が竜に変化するとは、容易に信じられることではないから、竜堂家に「竜狩人《ドラゴン・ハンターズ》」の手が伸びることは、さしあたってはないだろう。だが、ひとたび竜の実在を信じこめば、いまひとつの非常識も信じるようになる。人が竜に変化すること。あるいはその逆を。そうなれば、中世の魔女狩りにひとしいマス・ヒステリーが社会を荒れ狂うことになるかもしれない。  すべてのチャンネルを変えつくして、終がリモコンをソファーに放り出した。また書斎に出むいて、長兄に交渉を開始する。 「兄貴、やっぱりどっかに出かけようよ。中野区内を往復するだけで人生が終わってしまうなんて、悲惨すぎるぜ。豊かな見識と広い視野を育てるには、行動範囲を広げなきゃあ」 「中野区役所に就職したと思え」 「思いたくねえや、そんなの。おれに役人がつとまるわけないだろ」 「じゃあおとなしく宿題でもやってろ」  そう言いすててから、共和学院が夏休みにも冬休みにもいっさい宿題を出さなかったことを、始は思い出した。長男坊と三男坊が、同時に口を開きかけたとき、電話のベルが鳴りひびいた。  一瞬、始の表情が緊張した。予期せぬ電話が不吉な事件の第一歩である例は、いくらでもある。だが、壁ごしに続の応答がわずかに聴こえ、やや間をおいて、余が書斎の扉を開いた。 「茉理ちゃんからだよ。今晩、哲学堂公園で夜店があるんだって。みんなでいっしょに行かないかって」  そういえば、街かどの掲示板に、夜店の開催が告知されていたようだ。八月はじめから告知されていたのだが、大小の事件がつづいて、すっかり忘れていた。即答しない始に、お祭りずき少年の終が身を乗り出してみせた。 「日本の夏、夏の夜というと、蛍《ほたる》と夜店だぜ。東京じゃ蛍には会えないからさ、せめて夜店にでも行かないと、夏の情緒《じょうちょ》に申しわけない」 「終君の辞書に情緒なんて名詞があるとは思いませんでしたね」  余の背後から続が顔を出した。次兄の形のいいあごの下で、余が熱心に主張した。 「行こうよ、ねえ、始兄さん。せっかく近くであるんだしさ」 「ワタアメ、金魚すくい、タコ焼、トウモロコシ、花火、射的、かき氷、焼そば、お好み焼……」  終が連呼《れんこ》し、食べざかりの年齢の関心がどのあたりにあるかを証明した。夜店を充分に楽しむには、スポンサーが必要なのだ。ここは長兄を引っぱりだす一策あるのみである。  めずらしく、次男坊が三男坊の作戦に同調した。 「兄さん、いずれ再就職が決まったら、勤務時間にしばられることになりますよ。いまのうちに、手足を伸ばしておくという策《て》も悪くありません」 「再就職ね……」  始は頭髪をかきまわした。私立共和学院の理事と高等科教師と、ふたつの地位を叔父|靖一郎《せいいちろう》の策動で追われて、始はただいま失業中の身である。すぐに食うにこまるわけではないが、年内には就職先を見つけたい。学校か出版社というのが望みだが、そう思いどおりにいくものでもない。それにしても、ただいま失業中の竜王とは笑わせる。苦笑を胸のなかでおさめると、始は弟たちの誘いに乗った。 「せっかくの茉理ちゃんのお誘いだ。出かけてみるか」  長兄の返答で、続は徴笑してうなずき、終は「やった」とばかりに口笛を吹き、余は手をたたいた。       ㈼  哲学堂公園の広い野球場には、二〇〇軒からの夜店がひしめきあい、その間をぬって老若男女がにぎやかに歩きまわっていた。  夏の黄昏は、まだ地平にしがみついているが、哲学堂公園の上空には夜の巨大な染《し》みが広がりつつある。野球場の夜間照明が蒼銀色の光を夜店に投げかけて、いつもながらの熱帯夜が、いくらかは涼しげに思われる。  竜堂兄弟と彼らの従姉妹は、似たりよったりのTシャツ姿で、群衆のなかにいた。おしゃれな続でも、夜店をのぞくのに正装したりなどしない。というより、盆踊りや夜店の正装は、浴衣《ゆかた》ときまっている。その持ちあわせが、残念なことに、いま竜堂兄弟にはない。  こうしてのんびりと夜店をひやかしていると、東京が戒厳令に近い状態にあるとは、とても思えない。都心だとそうはいかないだろうが、このあたりはまだまだ、人々の気分もそれほど殺気だってはいなかった。戒厳令状態が長くつづけばどうなるかわからないが。 「みんなのサイズを測《はか》って、来年の夏には浴衣《ゆかた》をつくってあげるからね。今年はちょっと間にあわないけど」  茉理が片手のうちわ[#「うちわ」に傍点]を動かしながら約束した。 「ありがたいけど、こいつらは、茉理ちゃんの労作を汚すのがおちだな」  始があごをしゃくった先に、終と余がいる。ふたりとも、手が二本ではたりないという状況だ。焼そば、ソフトクリーム、タコ焼、トウモロコシと手あたりしだい買いこんで、口もひとつではたりない。 「終の奴、イソップ物語の主人公になれるぞ。欲をかきすぎて結局すべてを失うってやつ」  五、六歩おくれて、弟たちを見守りながら、長兄が皮肉った。だが、終はあぶなっかしい足どりながらも、身体のバランスをとるのがやたらと巧《たく》みで、ワタアメをとり落としもせず、タコ焼を路上にばらまきもしなかった。  二〇世紀も残りすくなくなって、とくに世界経済の一大中心となった東京では、季節感も庶民生活も、コンクリートとセラミックと半導体の無機質のなかに閉じこめられてしまいつつある。それでも、わずかながらこういう旧《ふる》くからの楽しみのなかに身を置くとほっとする。始は、日本の国家や社会のありかたに、強い批判をいだいているが、風土や民俗が嫌いなわけではなかった。その反対である。日本の風土を有害物質で汚染したり、民俗を滅亡させたりする手合をこそ、嫌っているのである。  ぶらぶら歩く五人の後姿に、視線をそそいでいる女性がいた。正義と良識の味方を自認する花井夫人だった。べつに竜堂兄弟の後をつけているわけではなく、夜店の雑踏のなかで、愛すべき(?)隣人を見つけたのである。  妻が色めきたつのを見やって、花井氏はうんざりした表情をつくった。 「おいおい、まさか、夜店をのぞくのは危険思想のあらわれだというんじゃないだろうな。だとしたら、おれたちも危険人物ってことになるぞ」 「花火をずいぶんたくさん買いこんでたわよ」 「そうかそうか、ワタアメも買ってたぞ。きっとあれでもって首相官邸でも爆破するつもりだろう」  花井氏がからかったが、夫人は反論もせず、肉と脂肪に恵まれた身体をゆすって、今度はほんとうに竜堂兄弟の後をつけはじめた。制止する夫の声を、たくましい背中ではね返し、スパイを追う秘密捜査官にでもなったつもりで、人波をぬって歩いていく。あきれかえりながらも、放っておけず、浴衣姿の夫は浴衣姿の妻を追った。  竜堂兄弟には、理性と別系統ではたらく第六感がある。ほんものの敵意や危険には、それが反応するが、花井夫人の悪意ぐらいのレベルでは、反応しようもない。茉理をふくめて五人とも、肥満した尾行者の存在などに気づかなかった。夜店の王道はこれ、というわけで、金魚すくいをやり、余が三尾もすくいあげたのに、年長の三人は一尾もすくうことができず、兄たちの面目丸つぶれになってしまう。ビニール袋を手に嬉《うれ》しそうな末っ子にむかって、 「ちゃんと世話をしろよ」というのが精いっぱいだから、なさけない話である。 「まあっ、金魚すくいなんかやってるわ」  にくにくしげに花井夫人はつぶやいたが、さすがに、金魚すくいをやるのが危険思想の証明だとはいわなかった。  金魚すくいの場所を離れて、一同は歩き出したが、終の足が、お好み焼屋の前でとまってしまった。 「あきれた奴だな。まだ食いたりないのか」 「終君の胃袋は、クラインの壷《つぼ》になって異次元に通じてるんですよ。放っときましょう」 「早くおいでよね、終兄さん」 「胃袋とちがって、財布はクラインの壷じゃないのよ。ほどほどになさいね」  四人四様の言葉を投げかけて、始たちが先に行ってしまうと、終は、円盤型の香ばしい食物を紙皿にのせてもらい、店の前を離れた。幸福そうに口と手と足を動かしながら、終は兄たちを追いかけようとしたが、急にあらゆる動作を停止した。神経の網に、悪意の波動がひっかかったのだ。むろん花井夫人の存在などではなかった。  終の視線がゆっくりと移動し、木蔭《こかげ》にたたずんで彼を見つめている人影に固定した。  白い狐の面をかぶった男だった。正確には、白い狐の面をかぶり、男の服装をした人間だった。夏だというのに長紬を着こんでいる。それでいて、暑そうなようすも見せない。血管に氷水でも流れていそうな、冷血動物めいた不気味さだった。終は生理的な嫌悪をこめて身がまえた。夜店の喧騒《けんそう》が、潮がひくように終から遠ざかった。  不意に、身をひるがえして、男は逃げ出した。いや、終を誘っている。それと承知の上で、終は男を追った。竜堂家の三男坊たる者、挑戦されてためらうようでは、存在意義《レーゾンデートル》[#なんでわざわざこんなルビにするんだか、その意図を疑う。サブリミナル効果でも狙ってるのか?]にかかわる。慎重で消極的な竜堂終など存在しないのだ。  残念なことは、男を追いながら、大いそぎでお好み焼を食べてしまわねばならず、芳香と美味をゆっくりと満喫《まんきつ》できなかったことだ。すてる? そんな罰あたりなことができるものではない。兄のしつけのよさを証明するように、紙皿はちゃんとクズカゴに放りこんで、終は狐面をつけた男を追った。兄たちが不思議そうに呼びかけたような気もするが、意に介《かい》せず追ううちに、哲学堂公園を出て道路を渡り、暗い場所に来てしまっている。  そこは野方給水塔がある場所だった。水色とも灰色ともつかぬドーム型の屋根が、巨大なコンクリートの円筒の上に載《の》っている。周囲は、ささやかな公園になっていて、樹木がしげり、砂場やブランコが配置されている。竜堂兄弟が幼いころから、よく遊んでいた場所だった。ちょっと貧乏くさい感じもするが、親しみやすい小公園である。  野方給水塔が完成したのは。一九二八年のことだ。関東大震災直後に建設が開始されたので、地震でも安全なように、と、おどろくほど堅牢《けんろう》につくられた。高さ三四メートル、直径一四メートル、八階建のビルにひとしい。内部には二〇〇〇トンの非常用飲料水がたくわえられている。これは六〇万人の一日分の必要量にあたる。  ドーム型の屋根の外周には、幅一メートルのバルコニーがあって、ここから眺《なが》めると、晴れた日には丹沢や富士の山なみが見える。むろん、一般市民は上れないが、夜、人気《ひとけ》がないときなど、竜堂家の兄弟たちは、とっかかりなどないコンクリートの外壁をよじ登って、バルコニーまで上り、東京の夜景と夜風を楽しんだことが何度もある。始や続は、さすがにもうそんなことはしないが、終や余はいまでもときどき、口うるさい兄たちの目をかすめて、人工ロック・クライミングを楽しむことがある。  そんな冒険は、竜堂兄弟にのみ与えられた天与《てんよ》の特権である、と、終は信じていた。ところが、いま、狐面の人物は、ドラゴン・ブラザーズの聖域を侵すべく、給水塔の外壁を、人間大の蜘蛛《くも》のように登りはじめたのである。  終や余にくらべれば、たどたどしい登りかただが、手をかける箇所《かしょ》もないコンクリートの壁面を登るのに、どれほどの握力《あくりょく》やバランス感覚を必要とするか。竜堂兄弟にとってはともかく、通常の人間にとっては容易ではない。終はぞくぞくした。どうやらここ数日の無聊《ぶりょう》から解放されそうだ。人間なみでない能力を与えられたからには、人間なみでない経験をしたいものではないか。  登りはじめるのは二〇秒ほど遅れたが、ドームのバルコニーに登りきったのは、一秒遅れにすぎなかった。登りながら、男は服とズボンをぬぎすてていた。黒いタイツのようなものをまとっている。えらく時代がかった奴だ、と、少年は感想をいだかずにいられなかった。 「お前、怪人二十面相の手下かよ」  二十面相本人ではなく手下といったのは、親分らしい風格に欠けると見たからである。  相手は返事をしなかった。黒いマスクのなかで、両眼だけが悪意に満ちた光を放射している。それに感応した終は、ためらいもなく一歩すすんだ。  終がすすむと、相手は後退した。ドームの円周は四四メートルほどになる。全周の三分の一ほどを、彼らはバルコニー上で移動した。この給水塔をこわすようなことはしたくないな、と考える余裕が、終にはある。 「金銭《かね》にあかせてつくった悪趣味な建物なら、いくらこわしてもかまわないが、風雪に耐えてきた古い建物は、だいじにしろよ」  そうはっきりと長兄から言われているわけではないが、この給水塔は、終が生まれるずっと前から建っている「ご近所さん」だ。ごく自然に、親愛の情をいだいている。なるべくなら破壊したくないものだ。  軽い足どりで、終はさらに前進した。体育館の広い床を歩くかのように危うげがない。陽に灼《や》けた、秀麗だがそれ以上に活気を感じさせる顔には、楽しげな表情が浮かんでいる。実際、少年は、この異常な追いかけっこを楽しんでいた。  にわかに事態が変わった。狐面の男はぴたりと後退をやめ、間髪をおかず、音もなく前進して間をつめると、左右の拳をくり出したのである。スピードといい、勢いといい、尋常《じんじょう》ではなかった。  常人なら、塔から地上へ、死のダイビングを強制されていたにちがいない。だが、終はむろん常人ではなかった。男の攻撃は空を切り、視界から終の姿が消えた。狐面の全身に、狼狽《ろうばい》の電流が走った。 「ここだよ!」  その声に反射的に顔をあげたとき、終のキックが男のあごにはいった。男はのけぞり、かろうじてドームに身を寄りかからせた。  空中からキックを放った終は、一回転して、とん[#「とん」に傍点]とバルコニーの上に着地している。重力も高度も無視したような軽妙な動作は、ほとんど宮崎駿のアニメ映画の主人公みたいだった。 「わかるだろ、手かげんしてやったんだぜ」  そう宣告したとき、白いひらめきが男の手もとから奔《はし》り出るのを、終は見た。竜堂家の三男坊にむかって、ナイフが飛んだ。これまた常人であれば、かわしようもなく、鎖骨《さこつ》の下あたりをえぐられたにちがいない。だが、五ニニミクロンほどの差で終はそれをかわし、ナイフを夜の奥まで飛び去らせてしまった。 「ちえっ、このていどじゃ変化しないか」  不敵すぎるほどの微笑をひらめかせて、終は姿勢を立てなおした。  自分たち兄弟が、絶体絶命の危機にあって人間から竜へと変化することを、終は知っていた。すでに次兄の続と弟の余が、彼の前で変化の姿を見せている。つぎは長兄の始か、それとも終自身か。変化のきっかけとなるなら、危険も悪くない。そう思っている終だった。  どうせなら、かっこうよく変化したいものだ。そう思って階段の手摺《てすり》の上でトンボがえりの練習をして、みごとに転げ落ち、長兄から大目玉をくらったのは、つい先日のごとである。 「古い家なんだ、だいじにしろ。床に穴があいたらどうする」  もし頚《くび》を折ったらどうするんだ、などという叱りかたをしないのが、竜堂家らしいところだ。  いずれにしても、終の眼前にいるこの男は、真の危機を終に与えてくれそうになかった。とすれば、さっさとつかまえて、めんどうな処理は兄たちにまかせるとしようか……。  頭上で爆音がひびいた。終の視線がすばやく動いて、灯火の接近を発見した。ヘリコプターが急降下してきたのだ。  この春以来、ヘリコプターという交通機関が、竜堂兄弟の味方であった例《ためし》はない。銃撃を予測して、終が全身のバネをたわめたとき、実際の動きは狐面の男のほうに生じた。男は、ゴールにシュートしようとするバスケット選手のような姿勢で跳躍した。  男の身体が、そのまま宙に浮いた。黒い服が、黒いワイヤーロープに巻きとられていた。ヘリに吊《つ》りあげられ、空中へ逃げようとしている。  さすがに終も目を見張った。ここまであざとさに徹するとは思わなかったのだ。 「ふうん、あきらめがよすぎるんじゃないの、悪党にしてはさ」  何か投げつけてやろうと思ったが、終は素手であった。コーラ瓶が一本あれば、ヘリなど地上にたたき落としてやるのだが、残念なことである。もっとも、ヘリが人家の密集地に墜落したら、大惨事になるだろう。いずれにしても、終は、まんまと相手に逃げられてしまいそうだった。  ヘリの灯火は、薄く都会のスモッグにくもる夜空を、終から遠ざかっていった。終の腕を一〇〇倍の長さに伸ばしても、もはやとどかない。 「まいったな、どこまでも怪人二十面相を気どりやがって……」  この少年には珍しく、いささか負け惜しみめいた台詞《せりふ》を口にした。気をとりなおしたように髪をかきあげ、夜風を肺に吸いこむ。  終の視線は東南方向に固定した。その方角には、新宿の摩天楼群が見える。先夜、火竜の出現によって廃姉と化し、巨大な墓石のように見えるが、その手前にあるこんもりした森に、火の手があがっているのがはっきりと確認できたのだった。       ㈽  野方給水塔の下までやってきた竜堂始、続、余の三人は、塔の外壁をすべるように降りてくる人影を、闇にすかして、ひやりとした。それが終だということは、わかっている。落ちるのが危険だとも思わない。他人の目につく可能性を恐れて、ひやりとしたのである。  始がどなろうとしたとき、 「兄貴、たいへんだ。共和学院が燃えてる!」  終の叫びに、始と続は目を見かわした。余は、三人の兄の顔を順々に見やった。 「ほんとうだよ、あれはおれたちの学校だって! 学校が火事だ!」  終は、冗談をいうべきではない場合を、わきまえている。そのことを、兄たちは知っていた。夜目が利《き》く終が、給水塔の上から見て確認したのであれば、うたがう余地がなかった。共和学院が火事となれば、学院長公舎、つまり茉理の家が危険だ。いそいで道路へ出ようとした一同は、肉の壁にはばまれた。花井夫人である。両眼をらんらんと光らせて彼女はわめいた。 「どういうことか説明してちょうだいっ。わたしは見たのよっ。納得できる説明がほしいわねっ」 「何を説明しろというのですか」  優美な続の徴笑が、かなり意地悪なものに思えて、花井夫人は、内心ではややひるみつつも一段と鼻息を荒くした。 「あなたの弟さんが、この給水塔の上から飛びおりて無事でいられる理由よっ」 「おやおや、三〇メートル以上の高さから飛びおりて、人間が無事でいるはずがないでしょう? 夜でもありますし、まちがえるのもむりはありませんね。でも、大きな声を出して、ご自分の誤りを宣伝なさることもないと思いますが」  その一言を残して、五人の若者は、さっさと歩き出した。追うに追えず、その場に突ったった花井夫人は、あしらわれたくやしさを夫にぶつけた。 「わたしは見たのよ。あの子は給水塔から飛びおりて、ま、まるで猫みたいに着地したんだからっ」 「そうか、誰にも見えないのに、お前にだけは見えたんだな。正義の味方にだけは……」 「あの子は人間じゃないわっ」 「そうかね、じゃ、竜の化身かもしれんな」  自分が口にしたことの、正しい意味を知る由《よし》もなく、花井氏は、さわぎたてる妻の身体を半ば押すように、自宅へもどっていった。  共和学院の主要な校舎群は、第二次世界大戦後ほどなく建てられた。はっきりいって、おんぼろなのだが、それでもこのごろの建売住宅などと比較にならないほど、堅牢《けんろう》な建物だ。「歳月の重さに耐える風格がある」というほめかたもある。それがこの夜、出火し炎上しつつあるのだった。  茉理がいるので走るわけにもいかず、戒厳令に近い街なかを、タクシーで母校に駆けつけた一同は、まず鳥羽夫婦をさがした。消防車や消防士のじゃまをしないよう努《つと》めながら、どうにか学院長公舎、つまり茉理の家の方角へ進む。  この火災も自分たちに対する攻撃の一環なのだろうか。始としては、気にせずにいられなかった。今年の春、余の誘拐未遂にはじまって、どれほど執拗《しうよう》な攻撃が竜堂兄弟に加えられてきたことであろう。この火災は、あらたな攻撃パターンのひとつかもしれない。  だとしたら、かならず加害者には報いをくれてやるぞ。無言のうちに、始は宣告した。始は相互主義者だった。相手が礼儀を守るなら、始も礼儀を守る。相手が無法にけんかを吹っかけてくるなら、二度とその気にならないように、たたきのめす。非礼や無法に対して、こちらが紳士としてふるまおうとは思わない。 「学院長たちは無事ですか?」  そう問いかけられた中年のガードマンは、始の顔を確認して、とっさに口ごもった。つい先だってまで、始がこの学院の理事だったごとをおぼえており、彼がその座を去った経緯《いきさつ》を、噂で聞いている、というわけである。返事は、すぐ事実によってなされた。炎上する校舎をながめて呆然とたたずむ鳥羽靖一郎の姿を、茉理が発見したのだ。娘は父親の名を呼びながら駆け出し、甥たちも、やや不ぞろいな足どりで彼女につづいた。 「お父さん、どうしたの、いったい!?」  茉理ですら、つい非合理な問いを発してしまった。共和学院の校舎が炎上する光景を目にしながら、「どうしたの」もないものだが、さすがに彼女も冷静でいられなかったのだ。 「わ、私の共和学院が燃えている……私の学校が」  靖一郎はあえいだ。  私の、という表現に、始は異議があったが口には出さなかった。とにかく現在の学院長が叔父であることは事実なのだ。  茉理がその場を駆け出したのは、火の近くにへたりこんだ母親の姿を見出したからだった。娘がいなくなると、靖一郎は急に始たちに敵意をむけた。 「何をしに来たんだ、呼んだおぼえはないぞ。学院を追われた君が、ここへ来る権利はない。私が悲しむのを見て笑うつもりだったんだろう」  これは完全な言いがかりであり、ヒステリーだった。靖一郎を逆上させたのは、火災のショックもさることながら、始たち竜堂兄弟に対していだいている後ろめたさであった。いろいろと策動をくりかえして、始を理事の座から追い、完全に学院を乗っとってしまった靖一郎である。では悪党に徹しているかというと、そうでもない。小心な彼は、いつ始たちの反撃があるかとびくびくしていた。自分より強い者に頼らないと、まともに始と話すこともできず、一方で自分の卑小さを「人間らしい」と正当化して、自分を何とかごまかしているのだ。だがそれも、すこしのショックで、バランスをくずしてしまうのである。 「言いたいことはそれだけですか?」  万年雪の冷たさで、次男坊が兄にかわって問いかけた。 「この際ですからね、言いたいことがあったら言ってみたらどうです、遠慮せずに」 「ふ、ふん、お前らが私のやりくちに否定的なのはわかってるんだ。お前らみたいに、何でも否定するのは簡単だからな」 「そう、否定するのは簡単ですよ。ぼくたちの生きかたを叔父さんが否定するのが、じつに簡単なようにね」  叔父の、じつに安っぼくて底の浅い議論を、続は一言のもとに粉砕してのけた。靖一郎は反論につまって、目を白黒させた。 「ですけど、もっと簡単な生きかたがあるでしょう。権力を持った強い人間たちのやることをすべて肯定《こうてい》し、長いものに巻かれ、お上《かみ》にぺこぺこして生きる生きかたです。お上に抵抗する勇気も批判する見識も、自分にはないものだから、そういったものを持っている人間が憎らしくてたまらないんだ。叔父さんが兄さんを憎む理由がそれですよ」  続の眼光も口調も、現に燃えあがっている炎のように烈《はげ》しかった。続の正体が、南海紅竜王|敖紹《ごうしょう》、つまり火竜の王であることを、靖一郎は知らない。知らないなりに圧倒され、たじろいだ。 「こういうことばがあるのを知ってますか、叔父さん。奴隷《どれい》根性の持主がもっとも憎むのは、じつは奴隷制度を批判する者だ、とね。その箴言《しんげん》を、叔父さんに進呈《しんてい》しますよ」 「私が奴隷根性だと……?」  靖一郎はうめいた。火災の炎を顔に受けているのに、その顔が蒼ざめた。始が続を制しようとしたとき、四〇歳前後かと思われる背広姿の男が、ふたりに駆け寄り、「まあまあ」などとなだめながら、かかえるように失意の学院長をつれ去った。 「続、あまりきついことを言うなよ。茉理ちゃんに気の毒だ。それに火事でショックを受けてるんだからな」  家長として、いちおう常識的なことを始は口にしてみた。 「叔父さんのことだから、きちんと火災保険はかけてありますよ。あの人が損なんかするものですか」  このとき続は、放火が直接的でないにせよ、叔父の手でおこなわれたのではないか、とすら思ったのだが、さすがに口には出さなかった。口にしたのは、べつのことである。靖一郎をかかえるようにつれ去った男が、かの大遊園地フェアリーランドの重役である、ということだった。  弟の指摘に、兄は眉を動かした。 「フェアリーランドの重役が、何だって共和学院に来てたんだ」 「正確には、東京湾開発という会社ですけどね」  続の説明によると、東京湾開発という会社は、首都圏の土地を売ったり買ったり、貸したり借りたりして、莫大《ばくだい》な利益をあげている会社である。それも、法律の境界線上を片足で歩くようなまねをしているという。現在も、酒井という社長は、ある土地を開発しようと画策《かくさく》していた。  そこは三浦半島の中央部にある六〇万坪の広大な土地だったが、首都圏近郊緑地保全法によって開発が禁止されていた。だからこそ地価も安く、東京湾開発会社は六〇万坪もの土地を三億円で買いとることができたのである。二○年前のことだ。  さて、買いとった後が、辣腕《らつわん》の見せどころである。酒井社長は、政界に強力に働きかけ、「三浦半島に国際文化村をつくる」と称して、緑地保全法の適用をはずさせてしまった。国際学部を持つ大学を誘致《ゆうち》するとか、外国人留学生が日本語をまなぶための研修センターを建てるとか、世界各国の民家を移築《いちく》して野外博物館をつくるとか、そういう計画を並べたて、工作費と称する賄賂《わいら》をばらまいて、開発を認めさせたのだ。むろん、「ついでにその周囲に佳宅地をつくる」というのが、じつは一番の目的なのである。  土地を買った費用が三億円。開発および造成の費用が八〇〇億円。政界工作費が六〇億円。これまで納《おさ》めてきた固定資産税が一億円たらず。そして売り出すときには三〇〇〇億円。経費を差しひいて二一三六億円が東京湾開発株式会社の金庫に転がりこむというわけだった。日本以外の国では、まずありえない、土地と法律を手玉にとっての錬金術《れんきんじゅつ》である。 「東東湾開発という会社は、フェアリーランド建設のときにも、相当あくどい商売をしたそうですからね。今度のことも、得意技のひとつなんでしよう」 「いやな話だな」 「腐臭《ふしゅう》がただようような話ですね」 「しかも、べつに日本では珍しい話じゃない。それがますますいやだ」  始は吐きすてた。日本の社会は、腐敗ガスを発する悪徳の沼地に侵略されつつある。そして、首まで泥沼につかって、湿泉気分で鼻唄《はなうた》を歌うような連中が、でかい面《つら》でのさばっているのだ。 「それで、なぜその悪徳企業の重役が、靖一郎叔父とつるんでるんだ」  やや曲線的な答えかたを、続はした。 「三浦半島に誘致される、国際学部を持つ大学というの、どこだと思います?」 「……まさか」 「そう、われらが母校ですよ」  続の皮肉すぎる声を受けて、始は思わず肩ごしの視線で叔父の姿をさがした。だが、見つけることはできなかった。彼の視界は赤やオレンジの色彩におおわれていて、消防士たちが懸命に消火活動をつづけている。叔父一家は救護所にいるのだろう。 「たしか靖一郎叔父は、八王子に移転するつもりだったはずだが、気が変わったのかな」 「財界筋から妙なプッシュがあったらしいんです。どうやって財界との間に友好関係を成立させたか、というと、例の四人姉妹《フォー・シスターズ》が彼らにウィンクしてみせたらしいんですがね」 「それにしてもよくそんなことがわかったな」 「ほめてくれますか、うれしいですね」  続は悪戯《いたずら》っぼく笑った。彼がときたまアルバイトをしている渋谷のプールバーに、熱心に通ってくる女客がいて、その女客は東京湾開発の秘書室長夫人なのだ。続に目をつけて、ついつい財布《さいふ》の紐《ひも》と口の錠《じょう》とがゆるむという次第であった。むろん、相手がゆるんだからといって、続がそれに応じるべき義理はないわけである。 「四人姉妹《フォー・シスターズ》か……」  始は、にがりきった。  もともと、靖一郎叔父は、政界とか財界とか、そういう世界に棲息《せいそく》する人種と、仲よくしたがっていた。権力を持つ人間と交際して、自分もその仲間になったつもりになる人がいる。そういう一面が靖一郎にはあって、甥たちの忌避《きひ》を買っていたのだ。それで痛い目にあったこともあるのだが、性根《しょうね》はなおらないものとみえる。  溜息をつき、始は、ことさらに話題を転じた。 「お前さんがブールバーなんかでアルバイトしてたとは知らなかったな」 「家計の助けにと思いましてね、美談は隠しておくものです」 「その、何だな、もうちょっと地道な職種はなかったのか」 「もうひとつ別口のバイトがあったんですけど、そっちのほうがよかったかな」 「どんなバイトだ」 「美術学校のモデル」 「……悪童どもはどこへ行った? 消火活動のじゃまなんぞしてなければいいんだがな」 「見物ですめばいいんですがねえ」  次男坊は、家長の危機感をあおってみせた。 「校舎がなくなれば、新学期の授業もできません。そのことを、終君はむろん知ってるでしょうねえ」       ㈿  そのころ、竜堂家の年少組ふたりは、兄たちから離れたところで火事を見物していた。むろん終は、消火活動を妨害することなど考えなかったが、新学期に数学の試験がなくなることを悲しむ気になれなかったことは、たしかである。見物しながら、終は弟に給水塔での事件を語った。白狐の仮面をかぶった男のことを評して、彼はいった。 「あいつ、なみ[#「なみ」に傍点]の人間じゃなかったぜ」  これはなかなかおもしろい言葉に思えたので、余は兄を見なおした。自分たちがなみ[#「なみ」に傍点]の人間でないことを承知の上での発言であるから。 「珍しいね、終兄さんがてこずるなんて」 「てこずるもんかよ。弱い者いじめするのもいやだから、逃がしてやったのさ。黒ずくめで、栄養失調の鴉《からず》みたいな奴だったぜ」  とても好意的とはいえない表現をして、終は視線を横に動かした。 「……あんな風《ふう》にさ」  え? 余はびっくりして振りむいた。終の視線の先に、黒い、アメリカ映画に出てくるニンジャのような服装をした人物がたたずんでいたのだ。顔には白い狐の仮面をかぶっている。 「逃げじょうずな奴が、また用があるらしい」  好戦的な光を、終は両眼に満たした。 「余! 兄貴たちに知らせろ。おれはあいつを追いかけるから」 「でも、終兄さん」 「早く知らせろったら! 年長者の命令だぞ」  終は男を追った。一瞬、どうすべきか迷った余は、金魚がはいったビニール袋を片手にさげたまま、踵《きびす》を返して逆方向へ走った。よほど強い根拠がないかぎり、竜堂家にあっては、年長者の指示は守られなくてはならないのだ。  自分のいいつけに弟がしたがうのを、肩ごしに見やって、終は満足した。何しろ、終が兄貴風を吹かせられる相手は、この世に余しかいないので。  狐面の男は快足だった。だが地上を走っているかぎり、終の追撃を振りきれるはずがない。追いつめられた。そこは、五〇メートル四方ほどの広さにわたって樹木がしげり、芝も敷かれて、昔から学生たちが昼寝の場所に使っていた場所である。  向きなおった狐面の男が、攻撃の姿勢をとった。給水塔の上で対時《たいじ》したときより、一段と強い悪意のエネルギーが放射され、それに終が応じようとしたとき、何かが鋭い風のような音をたてた。同時に五方向からワイヤーロープの輪が飛び、罠《わな》の中心にいた終の身体に、二本が巻きついた。三本までかわしたのは、竜堂兄弟の一員なればこそだ。狐面の男は、自分の慎重さに感謝することになった。ワイヤーの輪にしめあげられながら、終はどなった。 「こら、離せ! 離さないか!」  だが、むろん終の声は無視された。  いかに竜堂家の三男坊でも、親指ほどの太さがあるワイヤーロープを、しかも二本も、引きちぎることはできなかった。すくなくとも、人間の姿のままでは。  自分の両足が宙に浮くのを、終は感じた。何者かが巨大な力で、彼を吊《つ》りあげているのだ。頭上を見あげると、空中に狐面の男がいる。ワイヤーロープにっかまっているのだ。さらに上方を見る必要はなかった。狐面の男が、どういう奇術の種を使っているか、身体をしめあげるワイヤーが、いやでも教えてくれる。 「こらあ、お前らは鈎りの同好会かよ。人間をマグロやカジキとまちがえるんじゃない!」  大声で抗議したが、それを受けいれて反省する気は、相手にはないらしかった。  光が三〇〇万キロを走るだけの時差で、竜堂家の長男と次男と四男が駆けつけた。頭上にヘリの爆音が、小さく、だが広くおおいかぶさってくる。 「兄さん、あれを見て!」  余の指が夜空の一角をさししめした。始と続の視線が、夜空に放たれた。  炎上する佼舎を背景に、へリが飛び立ちつつある。火災による乱気流を恐れもせず、強引に上昇をつづけるのは、ヘリの性能と、パイロットの技倆《ぎりょう》と、どちらにもよほどの自信があるからであろう。だが、むろん、竜堂家の兄弟たちがおどろいたのは、べつの件であった。へリから黒々と伸びたロープの影に、人間がぶらさげられているのだ。  それは最初、シルエットにしか見えなかったが、竜堂兄弟は、自分たちの分身が宙吊りにされていることを、すぐに知った。 「終……!」  始が駆け出そうとしたとき、黒煙がはためいて、夜空に暗い河を形づくった。それが消えると、ヘリと終の姿は夜空の混沌《こんとん》のなかに吸いこまれてしまっている。 「終がさらわれた……」  竜堂始は愕然《がくぜん》とした。敵、その正体はわからないが、終をさらった敵は、東海青竜王|敖広《ごうこう》を愕然とさせるという偉業に成功したのである。 [#改ページ] 第三章 毒蛇たちの都       ㈵  竜堂終は大きなくしゃみをした。すこし寒けがする。恐怖や不安からではない。いくら八月の熱帯夜とはいえ、へリから吊《つ》られて三〇分も空を飛んでいては、体温も奪われようというものだ。  吊りあげられたのは西新宿である。いくつか特徴ある建物を足下に見て、大きな川を三本ほどこえた。地上の灯火から、低平地の上空を飛んでいることが判明した。前方に孤立する山影のようなものを見出したかと思うと、ヘリは高度をさげて、とうとう、ある建物の中庭に着陸した。口にはいった埃《ほこり》を吐き出しながら、終は、自分の居場所にだいたいの見当をつけている。 「隅田川、江戸川、利根川をこして、筑波山のすぐ手前か。右前方に光っていたのは、きっと霞ケ浦だな」  ワイヤーロープを引きちぎるのを断念して、終が、しばられた椅子の上で窮屈そうに身動きしたとき、鉄の扉が開き、コンクリート製の箱のような室内に光がなだれこんできた。 「けけけけ……ついにわしのものになったか」  聴覚神経を汚染するような、きたならしい笑声がした。笑声に似つかわしい、醜怪な老人が少年を見おろしていた。関東軍《かんとうぐん》の軍医として、人体実験や生体解剖、綱菌兵器の研究開発など悪業をほしいままにした田母沢《たもざわ》篤《あつし》という男だった。現在、日本の医学界、製薬業界に大ボスとして君臨している。先日来、竜堂兄弟をとらえて生体解剖してやろうという欲望にとりつかれているのだった。  淫楽《いんらく》殺人狂の老人は、銀色に光るよだれの糸を、肉の厚いあごに流しながら、歓喜にふるえる指を、終の肩先に伸ばしてきた。 「やめろ、変態!」  しばりつけられた椅子ごと、終は老人の指を避けた。Tシャッの布地の下で、若い皮膚が総毛だった。ひと目で終は相手の正体を見ぬいたのである。  終の拒否を無視して、田母沢はさらに手を伸ばした。ワイヤーで縛りつけられた椅子の脚を鳴らして、さらに終は、けがらわしい接触を避けた。周囲にいた黒衣の男たちのひとりが、椅子をおさえつけようと身をかがめた。  うめき声がおこった。出すぎたまねをした男のあごに、終が頭つきをくらわせたのだ。  男は強打されたあごをかかえて、床にひざをついた。 「おうおう、元気がよいのう。そうでなければ楽しみがないわい」  一歩ひきながら、田母沢は舌なめずりした。食用蛙のように醜怪で、食用蛙よりはるかに邪悪な顔が、太い首の上に乗っている。すでに獲物をとらえて、あわてることもないと考えたのであろう、一歩しりぞくと、あらためて終の全身像をながめた。いちおう医学者らしく白衣を着用している。この醜怪な老人にとっては、純白の布地が赤黒く染まる過程こそ、人生最大の楽しみなのだ。 「ところで、元気なぼうず、ここがいったいどこかわかるかな?」 「日本だろ」  終としては、自分の認識を正直にすべて語ってしまう義務はない。体力だけの知恵なしと油断させておいたほうが、脱出のチャンスが増えるはずであった。 「そんなことより、おっさんは誰なんだよ。クートゥルー神話によく出てくる蛙人間か?」  年長者に対して非礼な言種《いいぐさ》だが、相手が終に対し、礼をつくして迎えているわけではないから、これでかまわないのである。長兄の薫陶《くんとう》よろしく、終も徹底した相互主義者だった。 「わしは医学に身をささげた平凡な老人さ。そして 老人の目が、黒衣の男たちに向いた。 「こやつらは、ビッグボウルでお前らを襲撃した役たたずどもとは、ちとちがうぞ。お前の若い健康な肉体を、わしがメスで丹念《たんねん》に切りきざむ。そのてつだいをやってくれるのじゃ」  メスよりも先に言葉で、田母沢は、終の神経を切りきざもうとした。わずかに失望の色を浮かべたのは、終が、つまらなさそうに、今度は小さく、くしゃみをしたからである。ひとつせきばらいをすると、年おいた変質者は、白衣の胸を、ことさらにそらした。 「筋肉を強化するためには、酸素摂取能力を高めなくてはならんのじゃ。この男たちはな、筋肉細胞の酸素摂取能力を人為的に高めてある。常人の二倍以上にな」  講義するのがきらいなマッド・ドクターなどめったにいない。田母沢もその多数例に属した。優越感を満足させるための、貴重なチャンスである。終のほうは、得心《とくしん》する思いだった。野方給水塔によじ登った男の正体は、つまりこれであったのか。それにしても、この怪異な老人は、ビッグボウルでの大混乱のときから。終たちをねらっていたものらしい。 「さて、ぼうず、これからどういう運命に出あうことになるか、知りたいかな。望むなら、くわしく教えてやるが」 「その前にひとつ尋《き》いておきたいんだけど」 「ほう、何かね」 「ここはどこだ?」 「日本さ、ぼうず、自分でそう言ったろうが」  蛙がいやがるようなゆがんだ笑顔で、田母沢は終の問いをかわした。終としては、かならずしも確答を必要としていたわけではないが、老人の狡猜《こうかつ》さにかわされたことは事実であった。 「ただし日本にも天国と地獄があってな……」  しゃれたつもりで、田母沢がそう言いかけたとき、あわただしく、ひとりの男が入室してきて老人に一礼した。 「何じゃ、ここへは来てはならんというてあったじゃろうが」  聖域を侵された者の不機嫌さで、田母沢は部下をにらみつけた。恐縮してもういちど頭をさげると、部下は田母沢の耳に、いくつかの日本語を低く投げこんだ。 「蜂谷《はちや》じゃと?」  田母沢は眉をひそめた。蜂谷とは、彼にとって知人の名ではあるが、けっして同志や友人の名ではない。船津《ふなづ》忠厳《ただよし》という絶対者の死後、みぐるしく共食いをはじめた二流、三流の権力亡者集団のひとりであった。かつて公安警察でエリート街道を進んでいた男である。 「追い返せ。わしはいそがしいのじゃ。招きもせん客と、飲みたくもない茶を飲んどる暇はないわ」  いそがしいのは事実である。これから数日の間、田母沢は、巨大な医薬コンツェルンの支配者としての責務を放擲《ほうてき》し、竜堂終の生体実験に専心するつもりであった。単に彼の淫楽殺人癖を満足させるためだけではない。日本の医学の発展に、大きく寄与《きよ》するであろうことを、当人だけは信じている。 「何じゃ……四人姉妹《フォー・シスターズ》の代理で……ふん、あの毛唐《けとう》女が、蜂谷とつるんだというのか」  田母沢の表情が陰険さをまし、やがて老医学者は舌打ちまじりに返答した。 「わかったわい、すぐ行く」  おいしい料理を食べそこねた者の表情で、老人は若い実験材料に声をかけた。 「呼びもせん客が来たのでな。ちょっと待たせるが、悪く思わんでくれ」 「永遠にもどって来なくていいんだぜ」  誠意をこめた終のあいさつを、不気味に笑って受けると、田母沢は、血で汚れぬままの白衣につつまれた身体を、厚いドアのむこうに消し去った。  終は小さく息をついた。老人がいなくなって、空気に清浄さがもどってきたような気がした。あの老人は毒素のかたまりだった。  きっと兄弟たちが助けに来てくれる。そのことを、終は信じて疑わなかった。終白身、自分の兄弟が拉致《らち》されたり誘拐されたりしたときには、自らの身をかえりみず救出にむかうに決まっているからだ。  だが、おとなしく救出を待っているのは、終の気質でも趣味でもない。「貸しとくからな」と兄たちにいわれるのも、ちょっと癪《しゃく》だ。兄弟たちが来るまでに自由の身になっておくか、と、終はかるく心を決めたのだった。       ㈼  会見は最初から非友好的な雰囲気ではじまった。蜂谷《はちや》秋雄《あきお》は、一ミクロンの隙もないイタリア製スーツで応接室のソファーに腰をおろしていた。形式だけは非の打ちどころのない礼儀正しさで、蜂谷は、四人姉妹《フォー・シスターズ》が竜堂兄弟の身柄をほしがっていると告げた。  すると、マッド・ドクター閨母沢篤は、唇をねじまげ、まるで明治初期の国権《こっけん》論者のようなことを言い放った。 「ここは日本じゃ。毛唐どもの指図《さしず》は受けん。そんなことをすれば独立国としての国威にかかわるわ」  そこでやや口調を変える。 「それにしても、蜂谷よ、いっから毛唐の走狗《そうく》になりさがったのじゃ。同じ犬でも、秋田犬もあればドーベルマンもある、と、そういうことか」  他人の肉体を傷つけること同様、精神を傷つけることも、田母沢の趣味であった。たしかに、毒を塗った言葉のメスは、蜂谷の自尊心に揚をつけた。顔色を変えつつも、蜂谷は自制した。彼はもともと官僚である。官僚には自分自身の力はないといってよい。いかに巨大な力をバックにつけて、それを利用するか、つまるところはその点につきる。田母沢の権勢は日本の外に出ぬが、四人姉妹のそれは資本主義世界全体を支配する。優劣はくらべるものもなかった。  田母沢が口調をあらためた。 「どうじゃ、ひとつ公平に権利を分けてはみんか」 「何をいまさら……」  冷笑しようとした蜂谷は、田母沢の深刻な眼光に出会って、笑いを皮膚の下に封じこめてしまった。どう応じてよいか、とっさに決断がつかない。田母沢の変質性を、蜂谷は承知している。危険きわまりない老人だ。追いつめられると、蛙が蛇を喰《くら》うようなごともあるかもしれない。蜂谷は卑下《ひげ》してみせた。 「私は使者にすぎませんからな。一存では何とも」 「あの女の使者か」 「マリガン国際財団のです」  どうせ威を借りるなら、虎は巨大であるほどよい。蜂谷の、もと官僚根性がはっきりあらわれた返答であった。田母沢の顔から腕時計へ、蜂谷は視線を移した。時刻を確認したのである。彼に先導役をいいつけたVIPが、あでやかな姿をその応接室にあらわしたのは、シンデレラの魔法がとける時刻ちょうどのことであった。 「レディL、わざわざのおこしで……」  恐縮してみせる蜂谷に、軽くうなずいただけで、レディLことバトリシア・|S《セシル》・ランズデールは、田母沢に向きなおった。四人姉妹《フォー・シスターズ》の女幹都の視線を受けて、田母沢は、ごくわずかに眉をひそめた。彼がこの女と会っ花のは二度めである。最初に会ったときと同様、美しく肉感的で、しかも女王めいた威厳をそなえていた。それにもかかわらず、どこか徴妙な違和感を、老人は感じとったのだ。老人の、さぐるような視線を受けて、レディLは予定の戦術に出た。高飛車に宣告する。 「あなたが首尾《しゅび》よく捕えた竜堂家の三男坊を、わたしどもに引きわたしてもらいましょう。あなたが捕えていても豚に真珠。ただとはいいません、充分な代金は支払います。よろしいですね」 「わしの宝を横|奪《ど》りする気か、毛唐女め!」  田母沢の忍耐心は、最初から欠乏状態にあったが、たちまちそれも蒸発してしまった。椅子から立ちあがった田母沢は、口ぎたなくレディLをののしり、ついでに毛唐女の子分になりさがった蜂谷をののしり、ことのついでに、外国人をわがもの顔にのさばらせておく政府をののしった。だが、結局、マッド・ドクターにも俗物の尾がある。四人姉妹《フォー・シスターズ》を相手にして勝算がないことをさとり、いわば溺れる寸前の、これはあがきであった。 「逆上するのはおよしなさい、田母沢先生。日本人としても男性としても、みぐるしいですぞ。礼儀をお守りになってはいかがです」  蜂谷の声は、勝利感を隠しきれなかった。これがこの男の小さいところだ、と、レディLは思う。田母沢を圧倒したのは四人姉妹《フォー・シスターズ》であるのに、まるで自分ひとりで田母沢に勝ったつもりでいる。  熱湯で煮られた食用蛙。そうとしか表現できないような形相で、田母沢がわめきかけたとき、サイドテーブル上の電話が鳴りひびいた。受話器を耳にあてた田母沢は、表情を一段と兇暴にした。レディLと蜂谷に対して、事態を隠す必要もあったはずだが、それを失念《しつねん》し、大声をあげてしまう。 「あのこぞうに逃げられたと!? 役たたずの低能ども!」 「も、申しわけございません。さいわいまだ研究所の外には出ておりませんが、射殺してもよろしゅうございますか」 「ばかめ、殺してはならんぞ。絶対に殺すな!」  田母沢はもう一度わめいた。彼にとって、竜堂終は、強化人間やその他の部下たちのような消耗品ではない。ようやく掌中《しょうちゅう》につかんだ宝であった。 「死体を解剖しても、おもしろくも何ともありませんなあ、田母沢先生」  蜂谷が冷笑した。田母沢は、蛙面をふくらませた。反論する余裕もなく、受話器をたたきつけると、すでに精神的には血にまみれた白衣をひるがえし、どたどたと床を踏み鳴らして出ていった。老人の周章《しゅうしょう》ぶりを,蜂谷は鼻先で笑ってやった。 「どうしますか、レディL」 「そうね、さしあたりはドクター・タモザワのお手なみを拝見いたしましょうか」  感情を見せずに、レディLはそう答えた。  悲鳴が噴きあがった。コンクリートの天井に人体がたたきつけられ、半瞬の間をおいて床に落下する。強化人間といえども、ダメージはまぬがれなかった。苦痛に耐えながら起きあがろうとする。その上を、身軽な加害者が、障害物競走のランナーより優雅に飛びこえていく。 「もうちょっと苦労すると思ったけどな」  ぬけぬけと放言した少年は、むろん竜堂終であった。すでに彼の身はワイヤーから解放されている。縛られた椅子ごと、彼はよっこらしょと立ちあがって、強化人間のひとりに体あたりをくらわせ。壁にたたきつけた上で、またしても椅子ごと相手の胸に落下して肋骨《ろっこつ》をたたきおった。ふたりめの強化人間が躍りかかったとき、終が身体の角度をくるりと変えると、その男は、突き出た椅子の脚に自ら身を投げ出す形になり、みぞおちと鼻を同時に強打するはめになった。その手のナイフを、後ろ手のままもぎとって、ワイヤーに切れ目を入れる。腕に爆発的な力をこめる。ワイヤーが切れて飛ぶ。この間、一〇秒に満たない。 [#天野版挿絵 ]  終は手かげんしなかった。相手は強化人間であり、手かげんなどしていれば、終のほうが危なくなる。  少年は、天性のけんかじょうずだった。風格で長兄に、切れ味で次兄におよばないことを自覚しているが、純粋に技能となると、終こそが兄弟中、随一であろう。兄たちに対しては位負《くらいま》けするだけのことである。  終の足もとには、すでに四人が這《は》っている。プロレスラーの腕力と、フライ級プロボクサーの軽捷《けいしょう》さをかねた強化人間たちであったが、少年はたくみに彼らを分断し、一対一の局面をつくっては、電光のように各個撃破した。  四人まで倒しても、終の呼吸や鼓動には余裕があった。ありすぎるくらいだ。  五人めが襲いかかってきた。低い位置から強烈な脚ばらいがかけられる。ふわりと身を浮かしてそれをかわすと、上半身をおこしかけた敵の胸板にキックをたたきこんだ。肋骨が砕ける音が靴底にたつ。  相手に自分を殺す権利が与えられていないことを、終は悟っていた。とすると、こちらが遠慮せずに闘うことは、不公平なのであろうか? とんでもない。竜堂家の兄弟は、形式美の虚飾などにだまされないのだ。相手は多数であり、終を殺さないのは、生体実験にかけるという目的をかなえるためにすぎない。こういう輩《やから》を相手に、遠慮したり礼儀を守ったりするのは、天道《てんどう》に背《そむ》くことだ。 「……と始兄貴が言ってたっけ。家長の判断は一家の方針だもんな」  強化人間の全員を床に這わせて、悠々と終は両手を払った。 「それにしても、兄貴たち、早く来ないと、おれひとりで毒蛇の巣を掃除しちまうぜ。遅れてきて、ごちそうがなくなってるのを怒っても、知らないからな」  しなやかな手首を、終は鋭くひるがえした。コンクリートのかけらが天井の一角に激突して、モニターカメラをたたきこわした。  監視の目を消した上で、終は手早く罠をしかけた。じつに楽しそうな表情であった。  二分後、特殊警棒やスタンガンで武装した男たちが、六人ほどの集団で、廊下に侵入してきた。廊下の照明はたたきこわされている。灯火をつけては襲撃の目標になる。充分に用心しつつ彼らは進んでいったが、足もとに水を感じたつぎの瞬間、絶叫をあげてはねあがり、床にまかれた水の上に倒れた。こわされた照明器具から伸びたコードを、終が、水に投げたのだった。       ㈽  終がしかけたいくつかの罠で、すでに一〇人以上が戦闘能力を失っている。  彼らが相手にしている少年は、単に強健で俊敏なだけではなく、天性のゲリラ戦士であった。その認識を、事実によって思い知らされ、田母沢の部下たちは焦慮《しょうりょ》に駆られた。 「もし逃げられたら……」  田母沢の怒りがおそろしい。自分と家族以外の人間を、消耗品としか思っていない田母沢だ。無能とみなした部下を、組織にかかえこむ趣味など、もともとない。身分保障どころか、生命すら危うくなろう。  また、建物の外に、あの少年が出ていったら。この建物は、コンクリートと鉄条綱と高圧電線に囲まれた小要塞だが、人跡未踏《じんせきみとう》の地にあるわけではない。外に出れば、筑波研究学園都市の研究所群が散在しており、朝ともなれば、各研究所に通《かよ》う研究者や学生が道路上にあらわれる。そうなれば、この建物で何がおこなわれているか、外部に洩れてしまう。それはすべての破滅を意味するのだ。  いまや所員たちの恐怖と憎悪の的となった少年——年齢・一五歳、住所・東京都中野区、学籍・共和学院高等科一年、ヒト科リュウ属(?)——は、行く先々でモニターを破壊し、妨害者を排除して、出口へとむかっている。終自身はそのつもりだったのだが、この建物の構造は、かなり面妖《めんよう》であった。なかなか見出せぬ出口に、さすがに多少いらだった、終は巨大な鉄扉《てっぴ》のノブに両手をかけ、思いきり引っぱった。錠がはじけて扉が開いた。  出口ではなかった。ざわっとした感覚が終を襲って、少年の髪が一瞬さかだった。そこはおそらく、きわめて重要な研究施設かと思われた。最新科学の粋《すい》を集めたというより、扉からして奇妙に旧式で古怪な印象を受けた。これは田母沢が、悪行のかぎりをつくした関東軍時代をなつかしみ、外見だけは当時の細菌部隊の設備を再現させたのである。  そこまでは終が知りようもない。彼の胸を悪くしたのは、水槽に見た光景のいくつかだった。最初は自分が見たものの正体がわからなかった。それらが、頭がふたつある胎児の死体であったり、不幸な病気で頭蓋骨が変形した人の頭部であったりしたのを知ったとき、あやうく嘔吐《おうと》しそうになった。  水槽が見えない場所まで走って、壁に手をつき、激しく呼吸していると、背後に危険の触手を感じた。身をひるがえし、落下してきた竹刀《しない》を肘《ひじ》ではねあげる。あわてて逃げようとした男を、右腕をつかんでねじ伏せる。襲撃者は、さきほどあの老人に耳うちした男だった。  その男は、田母沢の秘書室長である横瀬《よこせ》昭次《しょうじ》だった。有能なビジネスマンとしての姿は、どこか遠くへ飛び去って、恐怖と狼狽にはさみうちされた中年男が腰をぬかしているだげだ。 「助けてくれ、私は何も知らない。何もしていない」 「そうかい、悪党の子分ってのは、かならずそう言うんだよ」  危険な笑いかたを、終はした。相手が生きた人間、しかも俗物ということになって、内心、彼はほっとしていた。わざとらしく、両手の指を鳴らしてみせる。 「それでもって、すこし痛い目にあうと、意見も態度も、ころりと変わるんだよな。ためしてみようか」 「か、変わらんよ。ほんとに私は何も知らんのだ。なぐってもむだ……」  むだではなかった。終が軽く——主観的には、だが——はたくと、頬に赤い痕《あと》を残した秘書室長は、たちどころに自説をひるがえしたものである。 「じ、実験奇形学の研究室だ、ここは」 「何だよ、それはいったい?」  問いながら、あらたな、そして強烈な不決感を、終は感じていた。神経網の上を、目に見えない虫の列が通りすぎていった。 「き、奇形とか精神異常とか、そういったものを研究することで、医学が進歩する。そういう一面があることは、君にもわかるだろ。ふやけた人権論議でなくて、科学の問題だ」 「ふやけているのがいやなら、あんたの人権を無視してやってもいいんだぜ」 「い、いや、ふやけたといったのは悪かった。とにかく医学の進歩のためには、質量ともにそろった実験材料が必要なのだ。だが、奇形とか精神異常とかの数はかぎられている。だから薬物を使ったり遺伝子を操作したりして……」 「わざと奇形や精神異常の人をつくって、実験材料にするってわけか?」  終に結論を先どりされて、横瀬はうなずかざるをえなかった。そして慄然とした。少年の顔は、かなり秀麗なのだが、苛烈《かれつ》なユネルギーがその秀麗さを打ち消すように噴出しているのだった。 「よし、よくわかった」 「わかってくれたかね」 「あの爺《じじ》い、生かしちゃおけない。そのことがよくわかった」  強烈きわまる宣告におびえつつ、横瀬は、いささか筋《すじ》のちがうなだめかたをした。 「き、君、どうか穏便《おんびん》に……」 「穏便にだと?」  終の手が伸びて、横瀬の襟首をつかんだ。片手だけで軽々と、横瀬の身体を宙に吊《つ》りあげる。 「だいたい、あの爺いが生体解剖だの人体実験だの、やりたいほうだいやっていたとき、あんたは何をしてたんだよ!」 「て、てつだったりはしなかった」 「それは、あんたが医者じゃなかったからだろ。でも、奴から給料をもらってたんだろ。見たところ、平社員じゃなくて重役だったんだろう?」 「…………」 「半殺しぐらいには値するよなあ」  少年の両眼が超新星《スーパー・ノヴァ》のようなかがやきを発して、横瀬は、なさけない悲鳴をあげた。空中で短い両脚をばたつかせる。吊りあげられた襟もとが締《し》まって咽喉を圧迫し、悲鳴も出なくなったとき、不意に呼吸が楽になった。靴底に床が触れた。ぜいぜいとあえぐ横瀬に、思いなおしたような少年が宣告した。 「出口へ案内してもらうよ。それでさしあたって今回は差し引きゼロにしといてやる」 「た、助けてくれるんだな」 「まじめに案内してくれたらね」  身体ごと横瀬はうなずき、まじめに終を案内した。後日、田母沢の憤怒を思えば足もすくむが、明日の噴火より今日の嵐を、まずは避けねばならない。それに、案内するうちにこの少年を罠にかける可能性もできるかもしれぬ。それをもくろんだ横瀬は、モニターがまだ括動している道すじを選んで少年をつれまわそうとした。  その小智が彼自身に渦《わざわい》した。モニターで彼らの姿を発見した敵がひとり、廊下の角からライフルで狙撃したのだ。横瀬に命中してもかまわぬし、少年のほうに命中してもまず死にはすまい、ということで、つい先刻、田母沢から発砲許可がおりていたのである。  不幸な横瀬は、その一弾によって、生命と未来を、永久に奪われてしまった。  頭部を赤くはじけさせて、横願の死体が床に倒れこんだとき、終はすでに身を躍らせていた。床にバウンドすると見せて、天井へ跳《と》び、身を一転させて天井を蹴ると、敵の頭上から襲いかかったのである。そのスピードに、敵は対応できなかった。銃身ごと腕をへし折られ、顔から床に突っこみ、一瞬にして血まみれの半死人に変えられてしまった。       ㈿ 「ヴラド計画《プラン》……ですか」  レディLの」言葉をきいて、蜂谷は小首をかしげた。 「ヴラド計画」の名を聞いた日本人は、蜂谷が最初である。名誉と思うべきかどうか、蜂谷にはわからなかった。レディLは、それが目本人を精神的に劣化させる、三〇年がかりの周到《しゆうとう》な計画であるというのだ。蜂谷は、秀才警察官僚のプライドをかけて記憶をさぐった。 「ヴラドとは、吸血鬼ドラキュラのモデルになった、あの人物ですか」 「そう、串刺《くしざ》し公ヴラドよ」  一五世紀、欧州東南部のバルカン半島に出現したヴラドは、ワラキア公国の君主として、政治と軍事に辣腕《らつわん》をふるった。強大なオスマン・トルコ帝国の勢威に抗して、小国ワラキアを守りぬいた彼は、たしかに有能ではあった。  串刺し公と称されたのは、捕虜としたオスマン・トルコ軍の兵士二万人を、生きたままとがった杭《くい》に突き刺して処刑し、その凄惨《せいさん》な死体の列を街道の両側に延々と並べて、みせしめにしたからである。トルコ軍はヴラドの残忍を恐れ、彼と戦うのをいやがるようになった。  ヴラドはワラキア国内を統一し、強大なトルコと戦うのに全力をそそいだ。国内で彼にさからう貴族たちも、串刺しや火あぶりによって殺されていった。さらに、ヴラドは、ワラキア国内を、美しく清潔にするために努力した。あるとき、ヴラドは、国内から、犯罪者、身体障筈者、精神障害者、物|乞《ご》い、酔っぱらい、なまけ者、放浪者などを駆り集め、一軒の大きな家に閉じこめた。そして周囲を軍隊で包囲し、家に火を放った。閉じこめられた人々は、全員、焼き殺されてしまった。ヴラドは、国を美しく清解にするため、「みにくくてきたない」と見た人々を殺してしまったのである。 「……どうです、ミスター・ハチヤ、実在のドラキュラが、吸血鬼ドラキュラなどより、はるかに恐ろしい人物であるということが、よくおわかりでしょう」 「た、たしかに……」  蜂谷は額の汗をベルギー製のハンカチでぬぐった。太陽と十字架を恐れる吸血鬼など、子供だましのお化けにすぎない。身体障害者を「みにくい」という理由で焼き殺したヴラドは、虐殺者アドルフ・ヒットラーの、おそるべき先駆者だった。  蜂谷は、思いおこさざるをえなかった。彼がまだ現役の警察官僚であった当時、横浜でおこった事件だ。公園のベンチで寝ていた失業者を、金属バットを持った少年たちが襲撃して、なぐり殺したのである。 「泣き叫んで逃げまわるのを追いまわすのが、おもしろかった。あいつらは抵抗しないから安心だった」  逮捕された少年たちは平然としてそう語り、おとなたちを慄然《りつぜん》とさせた。「きたない奴は殺してもいいんだ」と語った彼らは、無抵抗の者をよってたかってなぐり殺すという自分たちの行為が、どれほどきたないものであるか、考えようともしなかったのだ。 「きたない、外見が他の者とちがっている、というだけで、相手の生命を奪って平然としていられる、そういう人間、ヴラドの子孫のような人間が、日本人の若い世代には、どんどん殖《ふ》えているわ」  声もなく、蜂谷は聞き入った。冷傲《れいてつ》なはずの彼も、レディLの話に圧倒されていた。 「そして、彼らの特徴として、かならず複数でひとりを、多数で少数を襲うこと。一対一の闘いなど絶対にしない。相手を一方的に傷つけ、けっして自分は傷つかず、自分ひとりで責任をとることはない。笑うべきことに、匿名でいやがらせの手紙を送るていどのことさえ、自分ひとりだけではできず、仲間とつるむのよ」 「…………」 「若い世代が、これほど精神を荒廃させ、腐触させつつある国は、日本の他にないわ。二一世紀がほんとうに楽しみだこと」 「そ、それがヴラド計画《プラン》だと……」 「最初はべつの名が考えられたそうだけど、芸がないということで、ヴラド計画と命名されたの」  最初に考えられた名は、「ヒットラーの孫」という。レディLの言葉に、あらたあて蜂谷はうなずかされた。  アドルフ・ヒットラーは、生前、腹心のゲッペルスらに、こう語ったという。 「青少年に、判断力や批判力を与える必要はない。彼らには、自動車、オートバイ、美しいスター、刺激的な音楽、流行の服、そして仲間に蹴する競争意識だけを与えてやればよい。青少年から思考力を奪い、指導者の命令に対する服従心のみを植えつけるべきだ」  さらに、つぎのような言葉を聞かされた者もいる。 「国家や社会や指導者を批判する者に対して、動物的な憎悪《ぞうお》をいだかせるようにせよ。少数派や異端者は悪だ、と思いこませよ。みんな同じことを考えるようにせよ。みんなと同じように考えない者は、国家の敵だと思わせるのだ……」  と。 「ヒットラーという男は、人間を家畜化するもっとも有効な方法を知っていたというわけね」  レディLは薄笑い、蜂谷はまた汗をぬぐった。  いまや日本の青少年たちには、ヒットラーの孫たちが、おおぜいいるではないか。群をなして行動し、ひとりでの行動を排除する。政治にも社会にも関心がなく、権力者が不正をはたらいても、したり顔で「誰もがやってることだ」という。自分たちとちがう意見を持つ者を排斥《はいせき》し、匿名でいやがらせの手紙やカミソリを送りつけ、脅迫電話をかけ、机にナイフで「死ね」と彫《ほ》りつける。ヘアスタイルがちがうというだけで、同級生を階段から突き落とし、言葉になまりがあることを理由に、給食のミルクを頭からひっかけ、嘲笑し、はやしたてる。多数=権力=正義という図式を単純に信じこみ、少数=悪とみなして、どんなことをやっても個人の責任をとらずにすむと思っている。 「冗談のつもりだった。みんながやっていたから自分もやった。だから責任をとる必要はない——それが彼らの主張よ。ひたすら自分だけがかわいいのだわ」  悪意をこめて、レディLは蜂谷の窮《きゅう》したような顔をながめやり、その姿勢のまま、やや口調を変えた。 「むろん、そのような滅びに至る病《やまい》に犯されない者もいるわ。そうでしょう、ドラゴン・ボーイ?」  ぎょっとして。蜂谷は腰を浮かしかけた。重々しい胡桃《くるみ》材の扉が開いて、Tシャツ姿の少年が姿をあらわしたのだ。声をあげそうになった蜂谷は、レディLが、すくなくとも外見は落ちつきはらっているのを見て、ようやく自分を抑えた。レディLは少年に笑顔をむけ、自己紹介した。 「わたしはパトリシア・|S《セシル》・ランズデール。おぼえていただければ嬉《うれ》しいわ」 「あいにく記憶力が悪いんだ。もうすこし短い呼びかたを教えてくれよ」 「では、レディLと呼んで」 「頭文字かい、それとも胸のサイズかい」  たいして興味もなさそうな、終の口ぶりだった。レディLと初対面であったが、彼女の見せかけの友好的雰囲気にだまされるほど、終は単純ではなかった。この少年は、勉強はきらいだが頭はいいし、事象《じしょう》の本質を把握《はあく》する能力に富んでいた。 「どちらでも好きなように考えてちょうだい」  艶麗《えんれい》に、レディLは微笑してみせた。彼女としては自分の演技をつづけるしかない。  竜種は、生命や人格の尊厳に危機がせまったとき、人身から竜身へ変化する。それは彼ら自身の意思によってではない。すくなくとも、現在のところ、意思と理性によって、変化をコントロールすることは、できないようである。そこに四人姉妹《フォー・シスターズ》としては活路を見出すしかない。レディLにとって、それほどチャンスは多くないのだった。  いずれにしても、竜種の実体を確保しておかないことには、研究も支配もありはしない。まして、レディLにしてみれば、すでに先日、貴重な好機を逸して、ワン・アウトをとられている。四人姉妹《フォー・シスターズ》の大君《タイクーン》たちが、彼女を非才《ひさい》と決めつければ、冷酷な選手交替が待っているだけだ。  先日、南侮紅竜王は彼女の手中から脱出した。この日、西海白竜王が彼女の前にいる。今度こそ逃がしてはならなかった。  南海紅竜王の超常的な能力は、火と熱をあやつることであった。いま彼女の前にいる西海白竜王は、しなやかな肢体に、どのような力を秘めているのか。人身のままでも充分に危険な少年だが、これが竜身に変じれば、もはや危険などというものではあるまい。  一五歳の少年だからといって、あなどることはできない。だが、こちらが表面、友好的にふるまっているかぎり、鋭気をやわらげることもできるだろう。レディLは、唯一の道を知っていた。 「立ってないですわったらいかが、坊や」  声に情感をこめてみせたが、終はさして感銘を受けたようすもなかった。色気に敏感な性質《たち》ではないようである。 「あんたたち、あの蛙男の知りあいなんだろ? だったら善良な市民のはずがないよな」  かるく目を細めて、終は、それぞれに高級そうな服を着こんだ男女を等分に見やった。彼の体内に、好意は育《はぐぐ》まれなかった。 「またこちらのおっさんの、人相の悪いこと。冷酷無惨、暴力団の黒幕でなきゃ公安警察の大幹部ってとこだぜ。目的のためなら、どんなあくどい手段でも使いそうな顔をしてらあ」  栄光あるエリート警察官僚の地位を、暴力団と同列視されて、蜂谷は逆上しかかった。ひとつには、古傷を逆なでされたことがある。彼がエリート警察官僚の地位を棄《す》てねばならなかった理由は、公安警察がおこした盗聴事件の責任をとらされたからであった。「目的のために手段を選ばない」といわれても、しかたない。 「言葉に気をつけたまえ、君」  押し出すような低い声は、かつて警視庁や警察庁の部下たちを平伏させたものだが、少年はけろりとしていた。終を恐れいらせるには、始以上の風絡と迫力が必要なのである。  レディLが、両者をとりなす姿勢を見せた。 「こちらの方は、暴力団でも公安警察でもないわ。近々、アメリカの超一流大学の教授になられる方よ」 「大学教授う?」  うさんくさそうに、終はあらためて蜂谷を見やった。とても学者とか教育家とかには見えないが、終たちの叔父である靖一郎にだって学院長がつとまるのだから、この一見紳士風の男にも教授がつとまらないとはいえない。 「医学者かい」  そう尋ねたのは、ついさっきの経験からいって当然であった。答えはノーであった。 「あなたがドクター・タモザワをきらう理由は、わたしにもわかるわ。当然のことだと、わたしも思いますよ」  レディLとしては、竜堂終を自分の陣営に取りこむためなら、蛙男の田母沢など餌にしてもかまわないと考えている。七〇歳をこす今日まで、悪行をほしいままにし、何干人もの犠牲者の上に権勢をきずきあげてきた男だ。まともに戦争犯罪者として処断されていれば、五、六回は絞首刑になっているところである。二〇世紀が終わる前に、この男が地上から姿を消すのは、正義にかなうことであった。  レデイLを見やりながら、終は、奇妙な違和感にとらわれていた。たしかに美人で、人間としての内実《ないじつ》もそなえていそうだが、どこか少年の神経にひっかかるものがあった。初対面であるから、以前とどこかちがう、というようなことではない。ただ、理由もなく、何かちがうと感じさせるのだ。  応接室に終が侵入したのは、ここにVIPがいれば脱出に際して人質にできると考えたからである。不毛な会話を打ちきって、行動に出ようとしたとき、扉が開いて、建物の主が姿をあらわした。終の姿を見て、何種類かの表情を同時に浮かべる。喜んで駆けよるべきか、逃げ出すべきか、迷ったようにも見えるが、視線がレディLに移動すると、結着がついたようであった。  田母沢の顔が奇怪にねじまがった。他人の不幸を喜ぶ表情が、蛙面に翼をひろげた。蝙幅《こうもり》の形をした翼だった。ソファーの前に立ち、順番に三人の客をながめやると、田母沢は、ニコチンに毒された歯列をむき出しにした。 「ご婦人に、よくない報《しら》せじゃ。マリガン財団の東京赤坂分室とやらが、テロリストどもに襲われたそうな」  一瞬の沈黙。それを破ったのは、田母沢の、かさにかかった笑声だった。 「しかも六本木から赤坂にかけて、警察、自衛隊、いり乱れて大騒動らしい。さぞや留守宅のことがご心配じゃろうて。けけけけ」 「…………」  レディLは即答しなかった。年齢も立場もまるでちがう四人の男女は、それぞれの思いをかかえて、長い夜の折り返し点にいる。 [#改ページ] 第四章 バトル・オブ・ロッポンギ       ㈵  マリガン国際財団の東京赤坂分室。それはすなわち四人姉妹の、日本における非合法活動の作戦司令部である。財団の日本支部は、港区虎ノ門にあって、こちらは、文化や学術、社会福祉や国際交流などに関して、まっとうで合法的な活動をおこなっている。出版事業もやっており、「日本の伝統的な民家建築」とか「南蛮人文化の影響」などという、すぐれた本を出していた。つまり、マリガン国際財団の表の顔というわけだ。  そして、裏の顔こそが、東京赤坂分室であった。赤坂九丁目、旧防衛庁敷地に隣接したその場所は、六本木の表通りまで徒歩二分とは信じられないほど静かで奥まった雰囲気をただよわせている。分室は、高さ二メートルの鉄柵に囲まれた三階建の建物で、くすんだ煉瓦《れんが》色の化粧タイルが貼《は》られ、低層の高級マンションと見て通りすぎる人が多い。表札も、小さく。“Marigan”とあるだけだ。夜おそくまで灯火がともることはしばしばだが、ひっそりといつも静かである。  ここを襲撃したテロリストは四人、武装もしていない四人の若い男女だった。 「バトル・オブ・ロッボンギ」がはなばなしく開始される一時間ほど前、山手通りにほど近い西新宿の一角で、かなり大きな火災があった。私立共和学院で古い校舎が炎上したのである。夏休み中のことであり、学院長公舎や教職員宿舎への延焼はまぬがれたので、さいわい死者は出なかったが、木造旧校舎の二陳が全焼、一陳が半焼し、三万坪のキャンパスは黒と白と灰色の煙におおわれた。  混乱のなかで、共和学院の創立者である竜堂|司《つかさ》の孫が何者かにさらわれた。そのことに気づいたのは、彼の兄弟たちだけであった。長兄の始は、当然ながら弟を救出するつもりである。ただ、問題はその方法であった。彼は次弟と末弟をつれて、学院長である叔父の居場所をさがしあてた。父につきそっていた茉理が、始の表情を見て、形のいい眉をひそめた。 「どうしたの、始さん」 「茉理ちゃんか。終がさらわれたんだ」 「えっ、終君をさらうことができる人なんて、この世にいるの!?」  茉理はよほどおどろいたようであった。むりもない、と始も思うが、笑ってはいられず、芝生の上に立ちつくす叔父にむきなおって問い質《ただ》す。「終がさらわれた件について、叔父さんに何か心あたりはありませんか」  茉理にむけた声とは、まるでちがう。おだやかそうななかに、豪剣《ごうけん》のような鋭さと強さがこめられていて、その声だけで靖一郎は腰がくだけそうになった。かろうじて、へたりこむ醜態を回避すると、虚勢のかぎりをつくして返答する。 「私の知ったことじゃない。日ごろ家長風を吹かせているくせに弟の身も守れないとは、なさけない話だな」 「ずいぶんえらそうなことをおっしゃいますね、叔父さん」  続の声で、靖一郎は、びくりとした。とくに続に対して、彼は苦手《にがて》意識と一段の後ろめたさがあるのだ。 「私はお前たちの叔父だからな。意見ぐらいするさ。あたりまえのことだろう」 「そうですか。甥にしびれ薬を盛《も》って誘拐させるような人が、他人にお説教できるなんて、ちょっと信じられないようなことですからね」 「お父さん、ほんとう!?」  茉理が息をのみ、弁解を赦《ゆる》さない目で父親を見つめた。末っ子の余は一言も発さず、じっと叔父を正視している。たじろぐほど深い瞳の色だった。 「あれは媚薬だ。そう言われた」  口にしてしまってから、靖一郎は、自分のうかつさを呪った。たちまち冷《ひ》えきった空気のなかで、続の声がさらに冷たくひびく。 「ところがじつは、しびれ薬だったんです。飛行船が炎上したとき、よくも動かったと思います。兄さんのおかげですけど」  続の話にはいちじるしい省略があるが、むろんそれは、靖一郎の責任を軽くするものではない。 「お父さん、いくら何でもひどくない?」  非難と嫌悪の表情が、娘の顔に広がるのを見て、靖一郎は、いまさらのようにうろたえた。自分がやったことを反省したわけではない。娘の前で自分の非行を暴露されたことに、さかうらみをおぼえていた。一方、続としては、ここで茉理を除外して話を進めたところで意味がないのだ。 「ぼくが叔父さんを誘拐の共犯として処置しないのは、茉理ちゃんの親と思うからです。でなければ、とっくに、やったことに対する報いをくれてあげてますよ」 「そ、それが叔父にむかっていう台詞《せりふ》か」  形式的道徳論の尻尾に、かろうじて靖一郎はとりすがったが、つかむには細すぎる藁《わら》であった。にわかに人影が動き、例の東京湾開発の重役が、ろくに事情もわからずしゃしゃり出てきた。 「まあまあ、何があったか知りませんが、火事もどうやらおさまったようですし、万事はあとしまつがすんでからになさったら……」  冷然として、続が決めつけた。 「引っこんでなさい。あなたには埋立地で政治屋どもと泥水をなめてるのが似あいです」 「何だって、君、無礼じゃないかね」  声を高めようとした重役は、続の眼光で面上をひとなでされると、声帯の機能を一時的に喪失させてしまった。むなしく口を開閉させると、首をすくめ、二歩三歩と後退し、なしくずしにその場から退散をとげた。  靖一郎は孤立無援になってしまった。これで恐れいるか、というところで、自暴自棄《じぼうじき》の勇をふるいおこし、開きなおるのが、靖一郎の行動パターンである。それを予測している竜堂兄弟の前で、靖一郎は胸をそらし、せいいっぱいの演技で甥たちを見返した。 「始、お前は中国の思想家のなかで孟子《もうし》が好きだといってたな。性善説《せいぜんせつ》の孟子が好きだと」 「ええ」 「私は荀子《じゅんし》の思想が好きだ。人の性は悪なり、というのがな。それこそ、おとなの認識というものだ。知恵があり力がある者が、それにふさわしい行動をとってどこが悪い。マリガン財閥が何をしようと、政治家が利権をあさろうと、彼らの勝手じゃないかね」  唖然《あぜん》とした始が、叔父の暴論を反駁《はんぼく》しようとしたとき、兄の腕をかるく押さえて続が進み出た。 「叔父さん、あなたは一度でも荀子の文章を実際に読んだことがあるんですか」 「む……」  じつのところ、靖一郎は、荀子など一行も読んだことはない。ただ、始が、孟子が好きだと広言《こうげん》しているので、それに対抗するつもりで荀子を持ち出しただけのことである。中学生むけの歴史の参考善に、「孟子は性善説、荀子は性悪説《せいあくせつ》」とごく簡単に書いてあるものだから、その表面だけをとりあげて、自分につごうよく解釈しただけのことであった。 「人間の性は悪だ、だから権力者はどんなに悪いことをしてもよい、などと荀子のどこに書いてありましたか」 「ど、どこといって……」 「荀子二十巻三十二篇のどこに書いてありましたか。教えて下さい」  続の両眼にたたえられた光は、皮肉などというレベルにおさまりきれるものではなかった。 「荀子の性悪説とは、こういうことです。人間の性は悪なり、善なるものは偽《ぎ》なり。偽というのは、この場合、意識的自覚的な努力や教化《きょうか》のことです。残念ながら人間の本性は悪であるから、努力によって向上しなくてはならない。逆にいえば、人間は努力によって誰でも聖人になれるのだ、だから努力や礼教《れいきょう》はたいせつなのだ、と、荀子はそう言っているのです。人間は悪だからすばらしい、ことに権力者はいくら悪いことをしてもいいのだ、などと一言もいってはいませんよ」 「…………」 「自分の意見に説得力がないから、偉大な先人の権威を借りたくなるという心情《きもち》はわかりますけどね。それならそれで、もっと正確に引用して下さい。恥の上ぬりになるだけですよ」  続の声には一ミリグラムの容赦もなく、錐《きり》となって靖一郎の神経を突き刺した。  もともと続は、始ほど中国の文学、歴史、思想に精《くわ》しくはない。だが、兄が孟子を読んでいるので、孟子には興味を持った。そのとき直接、孟子を読むのではなく、孟子の対抗者である荀子を読んだのが、続らしいところである。  叔父の靖一郎が、始にいちゃもん[#「いちゃもん」に傍点]をつけるために中国思想を持ち出してくるなら荀子だろう、ということを、続はとっくに見ぬいていた。孟子といえば荀子としか思いつかない単純さが、いっそ気の毒なほどである。だが、続はさらに追い撃ちをかけた。 「叔父さん、荀子はこう言ってますよ。今の謂《い》う所の仕士《しし》なる者は、汗漫《おまん》なる者なり、賊乱《ぞくらん》する者なり、恣唯《しすい》する者なり、利を貪《むさぼ》る者なり、触抵《しょくてい》する者なり、礼義を無《な》みして唯《ただ》、権勢を嗜《たしな》む者なり——とね」  荀子は、当時の政治家が堕落しているのを怒って言った。何といういかがわしい奴らだ、社会に害毒を流し、やりたいほうだいに悪事をはたらき、利権をむさぼり、過失を犯しても平気で、礼節も正義も無視し、権力と勢力ばかりを求めている、と。 「荀子は、不正をはたらく政治家を、こんなにも憎んでいたんですよ。叔父さんとはえらいちがいですね。叔父さんに好きといわれて、さぞ荀子も迷惑なことでしょう」  絞首刑のあとで八つ裂きにされるようなものだ。靖一郎は完全に息の根をとめられてしまい、立ちすくんであえぐだけだった。 「そこまででいい、続」  始の声は、ほとんど吐息に近かった。       ㈼ 「叔父さん、もう一度だけうかがいます。終がさらわれた件について、ほんとうに何もご存じないんですね」  そう問われて、靖一郎は、大きくうなずいた。実際に、彼は何も知らなかったのだ。続にこてんぱんに打ちのめされた彼は、嘘をつく気力もなくしていた。だから、始から、マリガン国際財団の代表者であるランズデール女史の所在を問われたとき、東京赤坂分室の所在地を正直に告白してしまった。  茉理が、ふやけたような父親の手を、できるだけやさしくとって、母親のいる場所へつれていった。余が茉理をてつだって、いっしょに行った。それを見送って、次男坊が長男坊にささやいた。 「マリガン財団の所在地なんか知ってどうするんです、兄さん」 「わからないか」 「わかるつもりです。なぐりこみでしょう」  華麗なすごみが、続の唇に香った。南海紅竜王が人身のまま軍をひきいて戦場にのぞむとすれば、このような雰囲気になるのであろう。ただ、弟と対照的に凄みを外に出さない始のほうも、やはり尋常《じんじょう》ではない。  今回の件に直接、関係ないにしても、マリガン財団が何らかの形でかかわっていることは考えられる。どのみち、先だって続が飛行船で誘拐されかけた件について、マリガン財団に、きちんとしたおとしまえをつけてはいないのだ。先方だって報復を予想しているだろうから、長く待たせては気の毒というものである。また、終を救出するために、他の手がかりはない。したがって、マリガン財団には、重要な手がかりになってもらう。手がかりにならなければ、単なるやられ役になるというだけのことだ。そのときは、あらためて手がかりをさがす。  始の意思は、そういうことである。相当に苛烈《かれつ》で好戦的なものであった。続のほうも、兄がマリガン財団の所在を叔父に尋《たず》ねたという一事をもって、兄の意思のほぼ全容を把握《はあく》したのである。  ただ、こうなると、もう平凡な市民の生活にはもどれないだろう。自分たちはともかく、末っ子の余がかわいそうだ。それにしても、今度ばかりは叔父に対して愛想がつきた。自分たちとちがう世界に住む人だということを思い知らされた。権力者の不正を批判することもなく、長い物に巻かれて喜んでいるような人間は、権力者に嘲笑され、いつかかならず犠牲にされるのだ。それがわからないのだろうか。 「ねえ、兄さん」  兄の胸中を察した続が、しみじみと呼びかけた。 「養豚《ようとん》場で残飯をあたえられて丸々とふとった豚がいるとします。そこへおせっかいな人間があらわれて、『お前たちは近いうちに食べられてしまうんだぞ』と教えてやったとします。豚はその人間に感謝するでしょうか。残念ながら、ぼくはそう思いません」  ひとつ肩をすくめて、始は弟に苦笑まじりの視線をむけた。 「続、お前さん、たとえがきつすぎるぜ」 「そうでしょうか。事実や真実より錯覚のほうがたいせつだ、というだけならまだしも、事実を指摘した人を逆うらみして噛《か》みついてくるような手合《てあい》を、人間と呼ぶのは、人間一般に対する侮辱だとぼくは思いますよ」  始が黙っていると、足音がして、余が駆けもどってきた。白い煩《ほお》を紅潮させ、両眼が灯を受けた宝石のようにきらめいている。 「よかった。兄さんたち、ぼくを置いてどこかへ行っちゃうんじゃないかと思って……」  余の両手が、長兄と次兄の手をつかんで離さない。 「ぼく離れないからね。つれていって。仲間はずれにしたりしたら承知しないからね」  末っ子でも竜堂家の一員であり、戦力であることを言外に主張した。余だけではない、彼につづいてもどってきた茉理も、始を正面から見て宣言した。 「わたしもついていくわよ、始さん」 「だめだよ、茉理ちゃん、君は叔母さんについててあげなきゃ」  さすがに、叔父の名を口にしたくはなかった。茉理は従兄の心情を察して、一瞬、表情をかげらせたが、しいて笑顔をつくった。 「ところがね、母が言ったの、好きなようにしなさいって。共和学院に縛られるのは、自分たちまでの代でいいって。お祖父《じい》さんは孫たちを縛りつけるつもりで共和学院をつくったんじゃないって」  茉理は笑ってみせた。その笑いこそ、不退転《ふたいてん》の決意のあらわれだった。説得する余地がないことを、始はさとった。  叔母の真価を、ようやく始は知ることができたように思う。さすがに竜堂|司《つかさ》の娘であり、鳥羽茉理の母親だ。鳥羽家と、そして共和学院は。叔母にまかせておいて心配ないだろう。いずれ自分たちの至らなさをわびるときも来る。どうやら、いまは旅だって戦いにのぞむべきときなのだ。三人の弟と、ひとりの従妹。誰ひとり疎外はしない。死なせもしない。そう始は思った。 「わかった。竜堂司の孫たちは、ひとり残らず、どうしようもないけんか好きだってことだ」  あえて笑いを誘う表現で、始がいうと、他の三人は花が開くような笑いでそれに応じた。       ㈽  港区六本木。新碕新都心が炎上しても、自衛隊の治安出動がおこなわれても、この街のようすは、それほど変わらない。ネオンはかがやき、道行く人は笑いさざめき、無秩序なエネルギーと、俗っぽい華《はな》やかさと、底は浅いが多彩なにぎわいとに満ちて、昼と夜が無限に交替していく。  歩道わきに駐車した自衛隊のジープの助手席で、前方に両脚を投げ出した制服姿の男が、何やら歌っていた。 「花の六本木にもどっちゃみたが、やぼな制服着ていては、ガールハントもままならぬ、おいらは歎《なげ》きの兵隊さん……」  不謹慎な鼻唄《はなうた》を口ずさんでいる男は、水池《みずち》真彦《まさひこ》という。陸上自衛隊第一師団の二等陸尉どのだ。年齢は二九歳、やや細面で、鋭いのかとぼけているのか、判断がつきにくい顔だちをしている。つねひごろ、「市ケ谷みたいな殺風景な町はいやだ、六本木でシティ・アーミーをしたい」と放言している問題児だ。いちおう防衛大学校を卒業したエリート軍人のはずなのだが、特殊な教育にも染まらず、上官の白眼視《はくがんし》も平然と受け流し、不良自衛官の王道《おうどう》を歩んでいる。 「おーい、そこ行く軽薄そうな姉ちゃん、今夜つきあわないか。ビリヤードやって酒飲んで、ベッドインしようぜ」  いうことが露骨《ろこつ》なので、女性たちは鼻白《はなじら》んでしまい、立ちどまる者はいなかった。 「心配するなって、自衛隊員も人の子だ。人をとって食うようなことは、たまにしかやらないぜ。ましておれは陸上自衛隊《りくじ》だ。海上自衛隊《かいじ》の奴らだったら、民間船を当て逃げするかもしれんが、陸自が戦車で通行人をひき逃げしたことはまだないぜ。安心してベッドインしよう、ベッドイン」 「二尉どの、あんまり大きな声でベッドイン、ベッドインと連呼《れんこ》しないで下さい。聞いているほうが恥ずかしくあります」  肩に制式ライフルをかけた部下のひとりが抗議した。心から不思議そうな目つきで、水池二尉は問いかけた。 「何だってお前が恥ずかしがるんだ。お前とべッドインしようっていってるんじゃあるまいし」 「あたりまえです!」 「だったら恋愛の自由を妨害するんじゃない。お偉方《えらがた》は軍需産業から汚れた金銭《かね》をもらって、高級コールガールを抱きほうだいだ。おれなんか個人の魅力と実力だけで勝負してる。とがめだてされる筋合《すじあい》はねえや」  かなり危険な台詞《せりふ》を吐き出して、水池は視線を動かした。Tシャツとジーンズという、六本木らしからぬ服装の若い女に、視線を固定させてつぶやく。「ふうん、ありゃいい女だ。まだ原石だが、みがいたら女王さまみたいにみごとになる。おれの目に狂いはないって」  陸自で指おりの問題児に折り紙をつけられたなどと、当人は知る由《よし》もない。鳥羽茉理は、形のいい長い脚をいそがしげに動かして、六本木から赤坂方面への道を歩き去った。やがてたどりついたのは赤坂九丁目、奥まった静かな場所であった。  茉理と同行したのは竜堂余である。伸のよい姉弟が、六本木から流れてきたように見えるが、じつは、このふたりは兇悪なテロリストだったわけだ。虫も殺さぬ顔をして、資本主義世界を支配する巨象の後肢《あとあし》を蹴りつけに来たのである。 「茉理ちゃん、ちょっと待ってて。いま門をあけるから」  自分の家のようなことをいって、余が鉄柵に飛びついた。何ら努力を必要としない印象で、柵を乗りこえ、分室の敷地内におりる。鉄柵状の門をあけた。電動式の門は、人力で開閉できる代物《しろもの》では、絶対にない。だが、一三歳の少年は、常識を無視して門を素手で動かし、従姉を迎えいれたのである。 「変だな、何の用心もしてないみたいだね」 「犬ぐらいいてもいいのにね」  ささやきあいながら建物に近づく。暗い窓の下まで来ると、余は近くの庭石に手をかけた。  余の頭ほどもある庭石だ。それをまるでバスケットボールのように軽く持ちあげると、余は建物の一階の窓に力いっぱい投げつけた。ガラスが砕けちる音がしたかと思うと、非常ベルのひびきが夜を切り 窓のいくつかに灯火がともり、人声がおこった。それを、あらたなベルの音がかき消した。敷地の北側から、始と続が侵入に成功したのである。彼らも小首をかしげていた。変だ、ちょっと容易すぎるのではないか。  変でも何でもない。これほど粗雑で無思慮な攻撃を、マリガン財団のほうでは想定していなかったのである。攻撃とは、もっと計画的で、技術や装備を必要とするものではないのか。まして東京のどまんなかである。アジアやアフリカの政情不安な国々の首都ではない。有能で協力的な警察が駆けつけてくるまで、ほんの五分ほども保《も》たせればよいのだ。  マリガン財団の東京赤坂分室は、極左過激派の秘密アジトなどではない。武装勢力の強襲《きょうしゅう》などを恐れる必要はないのだ。それが常識というものであった。だが、常識を守る義務は、竜堂兄弟にはなかった。  窓から建物のなかに飛びこむ。鉄線いりのガラスを割られて、分室員たちは狼狽の極にあった。背広姿の外国人が、何かどなりながら電話に手を伸ばす。  続が飛んだ。というより、舞ったように見えた。電話に手をかけた男の手の上に舞いおりる。受話器ごと、男の手は踏みつぶされた。骨も筋組織も、一瞬でつぶされて、苦痛が爆発し、男は絶叫して床に転がった。  デスクの上に佇立《ちょりつ》する続。その脚につかみかかろうとした男は、フットボールの選手であったかもしれない。だが、始がかるく投げつけた灰皿を横面に受け、壁にむかって吹っとんだ。  ベルが鳴りつづけるなか、三人めの男の手に拳銃が光った。竜堂兄弟にとっては、「正体見たり」というところであった。始の片手が重いデスクにかかり、勢いよくはねあげた。デスクの面で顔面を強打された男は、手から拳銃を飛ばし、デスクをかかえこむ形で床にくずれた。  すでに安全装置をはずされていたコルト・スーパーは、床に落ちれば暴発するところであったが、寸前に始の手がそれをすくいあげていた。そこへ茉理と余が駆けつけ、四人のアアチュア・テロリストたちは合流を果たした。 「茉理ちゃん、銃を持っててくれ」 「かしこまりました、司令官」  こんな緊急の場合に、余裕をもって茉理は敬礼してみせた。  ベルのひびきに、べつの音がまじった。パトカーのサイレン音であった。さらにべつの音は、警備会社の自動車が急接近しているのだろうが。いまや赤坂九丁目の閑静な住宅街は、騒音の溶鉱炉《ようこうろ》と化し、ベッドにはいっていた近所の人々は迷惑にもたたきおこされてしまった。善良な被害者たちの半分は、窓をあけてようすをうかがい、残りの半分は、いったんつけた灯火を消し、息をころして嵐の通過を待ちのぞんだ。 「やれやれ、どうしてこうはでになっちまうのかね。もっと地味にやりたいと思ってるのにな」 「人それぞれ柄《がら》というものがあるんですよ、兄さん。ぼくたちは地味にやってちゃいけないと、玉皇大帝《ぎょくこうたいてい》の御意《ぎょい》で、そうなってるんですよ、きっと」  玉皇大帝とは道教《どうきょう》における最高神格で、四海竜王といえども、その前ではひざを折らねばならない。 「補天石奇説余話《ほてんせききせつよわ》」という書物では、玉皇大帝と、伝説にいう黄帝《こうてい》と、四海竜王の父である竜帝とを、同一の存在であるとしている。天地両界を支配し、神々と人類を指導する偉大な存在だ。 「なるほど、玉皇大帝の御意とあれば、やむをえんなあ」  それから一〇秒半の間に、分室一階のアンチ・ドラゴン勢力は、根こそぎ一掃されてしまった。迫撃砲弾でも撃ちこまれたような惨状のなかで、意識のある者を壁ぎわに放り出す。尋間《じんもん》のためである。外国人もいれば日本人もいた。ベルが鳴りつづけるなかなので、問う声も大きくなる。 「二度は尋《き》かんぞ。分室長はどこにいる?」 「|知らん《アイ・ドント・ノウ》」 「そうかい」  始は男の襟《えり》とベルトをつかんで、八○キロはありそうな身体を持ちあげると、窓ガラスにたたきつけた。人間とガラスの悲鳴がいりまじって夜気を割る。  その間に、ふたりめの男を続が尋問していた。 「知らん」と答えた瞬間、続の靴先が男の顔面にめりこんだ。鼻柱と前歯がくだけて、男の顔は赤くつぶれた。こちらは悲鳴もあげず、失神して床に倒れごむ。 「お前も知らないのか?」  始の眼光を受けたとき、三人めの男は、床にへたりこんだまま失禁しはじめている。口を動かしたのは、必死の努力の結果であった。 「レ、レディLは筑波《つくば》だ」 「筑波の研究学園都市か」 「そうだ、大亜《だいあ》製薬の研究所に行った」  何をするためか、レディLの目的を問おうとしたとき、レモンイエローの光芭《こうぼう》が窓外からなだれこんできた。警察が到着したのである。       ㈿  マリガン財団の東京赤坂分室で事件発生。  その報を水池二尉が知ったのは、ジープの後方座席に置かれた無線器からであった。警察無線を盗聴したのである。先方もやっていることだから、おたがいさまであった。ソ連では、参謀本部諜報総局《GRU》と国家保安委員会《KGB》が、たがいに盗聴をやったりしてさぐりあっている。権力の内部でも、右手と左手の仲が悪いことは、めずらしくも何ともない。ことに治安出動などということになれば、たがいの主導権あらそいがからんで、いがみあいは深刻になるのだった。  こいつはおもしろくなってきた。無責任なくせにどこか飄悍《ひょうかん》な笑いを、水池は浮かべた。 「おい、出動するぞ」 「ですが、二尉どの、軽々しく動くと、警察から文句が来ます」 「警察がこわくて陸自をやっていられるか。バトカーで戦車に対抗できると思うならやってみろ。勝てないだろうが」 「そういう問題ではないと思いますが……」 「やかましい。おれが何のために自衛隊にはいったと思うんだ。国民の血税《けつぜい》で戦争ごっこをやるためだそ。雌伏《しふく》六年、ついに志《こころざし》を果たす日が来たんだ」 「そういうのを志というんですかねえ」 「上官に口ごたえずるな。民間人の知らんところで、闇から闇に葬ってやるぞ。そら、はやく行かんと、警察に道をふさがれてしまうではないか」 「自分は知りませんよ、二尉どのが責任をとって下さいよ」 「冷たいことをいうな。上官と部下と、日の丸の旗の下で死ぬときは仲よくいっしょだぜ」 「いやですよ!」  こうしてジープは強引に分室の門前に停車した。当然のどとく、警察のがわからは反発が生じて、中隼の警部級の男が、無礼な自衛官に退去を求めた。 「自衛隊の出る幕じゃない、ひっこんでいてもらおう」 「現在、治安出動中だ。優先権は自衛隊にある。君たち警察は、財布をひろってとどけた主婦に無実の罪を着せてればいいのだ。よけいなことをせんでよろしい」  いちいち人の神経をさかなでする男である。何年か前に、大阪でおこった事件を皮肉られて、警部は憤慨したが、とっさに反論できず、口をもぐもぐさせた。  警官たちの列からすこし離れて、背の高い私服の青年が、うんざりしたような視線を周囲にただよわせていた。童顔で、ネクタイをゆるめ、夏背広を左肩にひっかけている。駆り出されていやいやこの場にいる、という事情がすぐにわかった。水池はジープの座席に立ちあがった。 「おい、ひょっとしてお前さん、虹川《にじかわ》か」  その声に、顔ごと視線を動かした私服の青年が、ジープに乗った制服姿の男の顔に、旧友のおもかげを見出して、口もとをほころばせた。 「水池か、妙なところで会ったな」  ゆったりと歩みよる。周囲はどちらかといえば白眼の壁なのだが、双方とも意に介さなかった。 「いや、こいつは奇遇《きぐう》だな。お前さんが政府の犬になってるとは思わなかった。首輪をほしがる趣味があるとは知らなかったぜ」 「そういうお前はどうなんだ。軍人なんぞになる柄とも思えんかったが」 「いや、おれは昔から、素手の相手を銃でおどかす生きかたにあこがれてたんでな」 「あいかわらずのものいいだな」  警視庁刑事部理事官の虹川は、高校時代のアルバイト職場仲間にむけて苦笑した。元気か、まあまあだ、といった挨拶《あいさつ》がかわされた後、こころもち水池が声をひそめる。 「で、ここはやはり|アメリカ中央情報局《CIA》あたりのセカンド・ハウスか?」 「ありうることだ。だが確証はない」  そこへ私服と制服の男たちが集まってきて、その輪のなかに虹川も加わった。低声の会話がかわされ、ときおり、出しゃばりの自衛官に白い視線がむけられる。やがて輪がとけると、水池はいっこうに遠慮するようすもなく、虹川に声をかけた。 「おい、どういうこった。何があった?」  問われた虹川も、隠すでもなく答えた。 「予想したとおりさ。上からのお達しでな、日本の官憲は手を出すな、黙って包囲だけしてろ、マスコミ関係者や、やじ馬を近づけるな。そういうことだ」 「自分たちだけで処理するってか」 「口に出して言ったわけじゃないが」 「ふん、よほど後ろ暗いところがありそうじゃないか。自信や責任感だけじゃあるまい」  知られてはこまる秘密がある。そう判断せざるをえなかった。マリガンは巨大財閥で、アメリカ合衆国政府のスポンサーである。巨大な組織ほど巨大な暗部をかかえているものであった。  分室の一階では、国家も権力も恐れない兇悪な四人組が、これからのことを相談していた。どうやら終は、大亜製薬の筑波研究所とやらにつれていかれ、レディLもそこにいるらしい。とすれば、当然、竜堂兄弟と茉理も筑波に行かねばならない。この逆に、分室にたてこもって、終の身柄を返還するよう要求する策《て》もあるが、時間かせぎをされるのが落ちだろう。 「で、警察や自衛隊は、兇悪なテロリストたちを、おとなしく見送ってくれるかしらね、始さん」  いたずらっぼく、茉理が疑問を提出した。 「警察だろうが自衛隊だろうが、マリガンの味方をする奴は、おれたちの敵だ。じゃましようとすれば、ま、後悔することになる」  気負《きお》ったようすもなく、始は低く笑った。 「何しろ、おれたちは人類の敵なんだからな。いまさら国家の敵といわれたって、痛くもかゆくもないさ」 「社会の敵、文明の敵、環境の敵……」  続が指を折ってみせた。いっしょになって余も指を折る。 「兄さん、国家と社会の味方たちは、秩序の敵にむかって銃を撃ちこんでくるでしょうかね」 「いや、いきなり射撃はしてこないだろうな」  分室員たちを人質にしているつもりは、竜堂兄弟にはないが、警察としてはそう判断するだろう。人命最優先というのが、日本の警察の基本精神である。すくなくとも、建前はそうなっている。射撃するにしても、まずマイクで呼びかけてくるだろう。  だが、警察からの呼びかけはなかった。サイレンの音もとだえて、分室の周囲は静寂に満ちている。温かい静寂ではなく、悪意と威嚇《いかく》に満ちた暗灰《あんかい》色の静寂だ。その意味を、始は考えた。何を考えて、行動に出ないのか。政府中枢からの指示を待っているのか。手を出さないのか。それとも出せないのか。  マリガン財団の東京赤坂分室。それは強大きわまる権力の爪先《つまさき》であって、暴力団の事務所などとわけがちがう。大使館や領事館なみに、治外法権ということになっているかもしれない。むろん非公然に、だ。  不意に始は天井を見あげた。疑惑が、彼の胸を侵触した。あるいは、建物の内部にこそ、侵入者にとっての危険がひそんでいるかもしれない。地下室からどこかへ秘密の通路が通じているかもしれず、三階あたりに完全武装の戦闘員がいて、化学兵器の使用準備をすすめているかもしれなかった。 「続、二階と三階はまだ見てないだろう?」 「ええ、まだです」  二階と三階まで偵察する余裕も必要もなかったから、放っておいたのだが、建物の内部全体をたしかめておくべきかもしれなかった。 「ぼくが行くよ。色ないと思ったら、すぐにもどってくるから、行かせて」  余が申し出た。終がいたなら、彼がまっさきに偵察行を主張したにちがいない。末っ子は、どうやら三男坊の代理をつとめるつもりのようだった。たしかに偵察の必要はある。二秒半ほどためらって、結局、始は余を行かせることにした。「かわいい子には旅をさせろっていうもんな」とは、いささか大げさな感懐《かんかい》であろう。  余は足音を忍ばせて階段を上っていった。巨大なシャンデリアの灯火に照らされた踊り場でちょっとたちどまり、心配げな兄に小さくうなずいてみせる。さらに上って、二階の床に達した。用心しつつ一○歩ほど進んだとき、いきなり手近の扉が音高く蝶番《ちょうつがい》をはじき飛ばし、黒い影が立ちはだかってきた。  余は飛びあがり、飛びおり、飛びのいた。  末っ子らしく、気性はおっとりしているが、その運動能力と反応速度は兄たちに劣るものではない。相手の太い腕は空気を抱き、抱きつぶした。灰色熊の背骨でもへし折ってしまいそうな力感があった。  薄闇をすかして、余は相手の姿を確認した。長兄の始より三〇センチほども高い、人間ばなれした巨漢だった。しゅるしゅるという傾い音が口から漏れたのは、舌を鳴らしているのだろうか。両眼の位置で、青い光が燐《りん》のようにちらついている。巨漢はふたたび腕を伸ばし、前進してきた。その巨体と勢いに圧倒されて、余は階段の下り口まで後退してしまった。巨漢が碗をくり出した。 「兄さあん!」  叫ぶと同時に、敵の猛撃を避けて、余は後方へ宙返りした。一回転して階段を蹴り、もう一回転して踊り場に着地する。終であれば、ここで「決まった」とポーズをつくるところだが、余にはそこまでのショーマン・シップはない。呼吸をととのえて階段の上の薄闇を見あげたとき、猛悪なパワーを至近に感じた。  横に飛ぶ。余の頭ほどもある巨大な拳が、踊り場の壁にめりこみ、破砕音とともに鏡板《かがみいた》の破片をまきちらした。余は目をみはった。自分たち兄弟の他にも、こんなことができる者がいるのだ。パワーだけでなく、余の宙返りに肉迫してきたそのスピード。  べつの音が一階から軽快に駆けあがってきて、余は、長兄が来てくれたことを知った。 「さがっていろ、余、一階に行ってるんだ」  半分だけ、余は兄の命令にしたがった。階段を五、六段だけおりると、恩をのんで、兄の闘いを見守ったのだ。階段の下には、続と茉理も駆けつけたが、よけいな手出しはせず、だまって踊り場を見あげた。  巨漢が始に襲いかかった。巨腕がうなりをたてる。自分の腕をあげて、始はその殴打《おうだ》を空に流した。岩盤のような胸板が無防備になり、そこへ始の拳がすばらしい速さで撃ちこまれる。手ごたえは確かだった。一流のプロレスラーでも、壁にむかって吹き飛ぶだろう。だが巨漢は半歩よろめいただけであった。「なに!?」とおどろく間もない。巨大な手が、虚をつかれた始の襟首をつかんで、強烈に締《し》めあげた。締めつけつつ、思いきり始の身体を壁に押しつける。始の両足が床から浮きあがった。信じられない膂力《りょりょく》だった。  余が跳躍した。巨漢の肩に背後から飛びのり、両脚でふとい頸《くび》をしめつけ、頭ごしに手を伸ばして顔面をなぐりつける。鼻柱と前歯が折れたか、鈍い音とともに血がほとばしったが、巨漢が始の襟もとを 締めつける手はゆるまなかった。それどころか——巨漢は右手で始を締めあげながら、左手を離し、肩の上にいる余の足首をつかむと、勢いよくわが身からもぎ離し、宙に抛《ほう》り出したのである。  余の小さな身体は、踊り場から飛び出し、放物線をえがいて一階ホールの床へ落下していった。茉理が悲鳴をあげた。だが、余が床にたたきつけられる寸前、フック・スライディングの要領で、続が床に身を投げ出した。余は無傷で次兄の腕にささえられていた。 「アンパイヤの判定は?」  続の声に、茉理と余が同時に答えた。 「セーフ! セーフ! セーフ!」  踊り場では、始が巨漢に振りまわされ、壁にたたきつけられたところだった。一瞬、息がとまる。 「始さんを離しなさい、でないと撃つわよ!」  茉理の声と、余をおいて駆けあがろうとする続を無視して、巨漢はもう一度、始を壁にたたきつけ、勝利のうなり声をあげると、始を宙に抛りあげた。天井と床にたたきつけて、とどめをさそうとしたのだ。その動作が、一瞬にして、勝敗を逆転させた。  重量一〇〇キロをこす巨大なシャンデリアが、巨漢の頭上に落下してきた。天井へ拠りあげられたせつな、始は手を伸ばしてシャンデりアの鎖をつかみ、天井との激突を避けるとともに、もう一方の手刀で鎖を切って。シャンデリアを落下させたのだ。  轟音と、矇々《もうもう》たる埃。飛散するガラスの破片を避けて続はとびのいた。腕をあげて顔をかばう。やがて腕をおろした続の視界に、シャンデリアの下敷きになった巨漢の姿が映った。シャンデリアの直撃で頭部をつぶされ、完全に動かない。 「始兄さんと余君と、竜王がふたりがかりで倒してあげたんですからね。名誉だと思いなさい」  そういって、続は、念のため巨漢の死体をのぞきこんだ。わずかに、形のよい眉をひそめる。鎖を離して飛びおりた始に、余と茉理がとびついた。 「大丈夫、始さん!?」 「兄さん、平気!?」 「ああ、まだ祖父さんに再会できないみたいだよ。外のようすはどうだ?」 「警察は動く気配がないわ。いまの音が聴こえなかったはずはないけど」  つまりこの敷地内で何がおころうと関知しないということか。始は茉理の報告にうなずき、左手の甲で背中をたたいた。二度にわたって怪力で壁にたたきつけられ、こわれた鏡板とぶつかって、さすがに背筋が痛む。  もうひとつの可能性を思いついた。数日前、新宿新都心で東京都庁ビルを破壊したときに生じたことだ。完全武装のアメリカ軍が突入してきたではないか。今回も、グリーンベレーだかブラックベレーだかをかぶった外人さんたちが、ガムをかみかみ押し寄せてくるのだろうか。 「兄さん、これを見て下さい」  ささやいて、続が、白い掌《てのひら》を開いた。金属と樹脂の、小さな、こみいった部品が載《の》っていた。それにくっついているのは人間の皮膚に見えたが、特殊メイクアップに使うような樹脂の一種であることがわかった。 「あの男、人間じゃありませんでしたよ。ぼくたちとちがう意味でね」 「……とんでもない伏魔殿《ふくまでん》だったな」  不快な刺激感で、胃のあたりがちくちくした。マリガン財閥をふくめた四人姉妹《フォー・シスターズ》は、ねじくれたユーモア・センスの所有者であるらしい、と思った。つぎは人造の恐竜でもくり出してくるのだろうか。 「どうしたの、始さん」  従妹に問われて、始はすこし的はずれな答えを返してしまった。 「茉理ちゃん、いや、何でもない、苦労をかけるね」 「あら、自分のための苦労って、わたし好きよ。やりたくてやってるんだから、よけいな心配しないでね」 「そうだよ、ぼくたち、みんなこういうことが好きなんだから、気にしないでよ」  熱心に、余が口ぞえしたが、あまりなぐさめてもらっている気に、始はならなかった。茉理や余が本心で言っているとすれば、それはそれでちょっと頭が痛くなる、苦労性の家長である。兄の表情を観察した続が、声をたてずに笑った。 [#改ページ] 第五章 戦車が道をやって来る       ㈵  自分は平和で繁栄した戦後日本の権力者ではなかったろうか。就寝直後に急報でたたきおこされだ日本国首相は、背広の袖に腕を通しながら、そう考えた。経済力は世界一、軍事予算は米ソにつぐ世界第三位、小学生の算数の学力も世界一、たしか国民の知能指数《IQ》の平均値も世界一だったはずだ。世界でもっとも優秀な民族、超先進国ニッポン(ニホンではいけない)を指導する自分が、何だって夜中におこされて仕事をしなくてはならないのか。こんなことのために自分は政治家になったんじゃあない……。  首相の内心の声は、東大出身の内閣官房長官には聴こえなかった。彼が考えていたのはべつのことだ。二〇世紀後半の世界で、もっとも経済的に成功し、繁栄の頂点に立つこの国が、眼前にいる凡庸《ぼんよう》そうな小男に統治されていると信じることは、事実を前にしても困難であった。べつに、私立大学出身だということに偏見を持っているわけではない。  第二次世界大戦畿、私立大学出身で首相となった人に、石橋湛山《いしばしたんざん》がいる。早稲田大学を卒業してジャーナリストとなり、剛直で識見に富んだ自由主義者として名声をえた。軍国主義の嵐が吹き荒れる時代に、「朝鮮や台湾のような植民地を放棄し、中国大陸から撤兵《てっぺい》せよ」と主張した、知性と勇気の人だった。戦後、政界に転じ、大蔵大臣、通商産業大臣をへて、一九五六年末に首相となった。病気のため、わずか二ヵ月で辞任したが、やめぎわもじつにいさぎよく、人々に惜しまれた。もし石橋内閣が三年つづいていれば、戦後日本の政治は、はるかに清潔で開明的なコースを歩んでいたであろうといわれている。  で、現在の首相である。同じ私立大学出身者でも、石橋湛山とまったくことなるのは、金銭的なスキャンダルが絶えないことであった。とにかく、汚職事件や疑獄《ぎごく》事件のたびに名前があがる。二〇億円の掛軸《かけじく》事件」とか、黄金のついたて[#「ついたて」に傍点]がどうしたとか、新興企業の株式取引疑惑とか、住宅会社の乗っとり事件とか、なにしろ戦後の一○大疑獄といわれる事件の過半数に名前が出てくるのだ。いったいどうやって巨大な資産をきずきあげたのか、多くの人がうたがっていた。  そして特筆すべきは、これまで一度も逮捕された経験がないことだ。かつて首相が属していた派閥のボスは、やはり金権政治家といわれた人だが、あるとき、ため息をついていったという。 「あいつは、おれの悪いところばかりまねしている。しかも、おれなんぞよりよっぽど巧妙だ」  首相の金権ぶりは外国にまで知られている。イギリスの有力な週刊誌に名ざしで「日本における金権腐敗政治の最悪の甲し子」と書かれたほどだ。  そのように腐敗した政治家が、なぜ失脚もせず首相の座についていられるかというと、よくしたもので、腐敗した政治家には、ちゃんとそれにふさわしい支持者がついているものだ。 「政治家が賄賂をとって何が悪いの! いじめるなんてかわいそうじゃないのっ」  と叫ぶ、花井夫人のような人たちが。  花井夫人より、はるかにスケールは大きかったが、首相も公私の区別がまったくつかなかった。地位と権力を利用して私腹《しふく》をこやし、部下や選挙民や関連企業におこぼれを分け与える。そのことに何の疑問も持たなかった。  このあたりの感覚は、たとえば、卑賤《ひせん》の身から天下人になりあがった豊臣秀吉が、自分の一族を大名にとりたてて栄燿栄華《えいようえいが》を与えてやった例と、ほとんど変わらない。つまり、首相の意識は、近代人のものではなく、四〇〇年前の人間と同じなのであった。  アメリカ合衆国では、大統領が株の売買をおこなうことを、法によって禁止している。実質的に四人姉妹《フォー・シスターズ》の政界代理人にすぎないとはいえ、公権力をつかさどるからには、私人としての利益を追求してはならない。法制度がそうなっている。それが近代民主国家というもので、権力者が公私混同をほしいままにして私腹を肥《こ》やすような国、たとえばソ連や日本などは、近代民主国家とは、とてもいえないであろう。一方は軍事力が、一方は経済力が、異常に肥大し、イギリスやフランスから、「この両国さえ消えれば世界は平和だ」と痛烈に皮肉られている現実である。日本人は、自分の国は平和な文化国家だと信じているだろうが。  日本国政府の年間予算で、軍事予算は全体の六・五パーセントを占める。一方、文化・芸術関係の予算は、○・〇七パーセントでしかない。西ドイツの一・〇四パーセント、フランスの○・四ニパーセントにくらべ、目をおおわんばかりの惨状である。予算額から見れば、日本が文化大国であるか軍事大国であるか、答は歴然としている。保守派の論客でさえ、あまりのひどさにたまりかねて、「もっと文化・芸術関係の予算をふやせ」と意見したほどだ。だがその意見を首相が受けいれることはないだろう。古い寺院を修復したり、人形劇やオペラを振興したって、一円の見返りがあるわけでもないのだから。  そして、まだ半分目がさめない状態で、首相は官邸での緊急会議にのぞんだ。赤坂九丁目、旧防衛庁敷地のすぐそばでテロリストがマリガン財団の分室を襲い、大さわぎになっているというのであった。報告を受けたり、意見を聞いたりした末、首相はいった。 「まあ、各位のご協力をいただいて、国民が納得するような形でですな、いたずらに犠牲者が出ないよう解決することが何より肝要《かんよう》ではないかと思うのにやぶさかではないはずではないかと自分に問いかけている次第であるやに考えてもよろしいかと……」  アメリカの黒人議員連盟から、「空疎《くうそ》で抽象的な言葉の羅列《られつ》で、誠意のかけらもない」と酷評された言葉づかいである。官房副長官、情報調査室長、内政審議室長ら官邸づめの官僚たちは、無感動に聞きいった。すでにアメリカ大使館から鄭重《ていちょう》に電話がはいっていた。先日の飛行船墜落事故同様、手出しをひかえてほしいというのである。 「要するに政府としては、何もしないということでよろしいので?」  情報調査室長に間われて、やや不本意そうに首相は答えた。 「そんな言いかたをしては身も蓋《ふた》もないねえ。もっと表現に留意《りゅうい》してくれたまえ。やたらと手を出せばいいってものではないよ。むりに打たなくたって、フォア・ボールってものもあるんだからねえ」       ㈼  何もしない、という点では、マリガン国際財団東京赤坂分室を包囲した警察と自衛隊も同様であった。いや、正確には、何もさせてもらえないのだ。手出しを禁じられたまま、五分、一○分と時が経過していく焦燥感《しょうそうかん》に耐えていた。屋内で激しい物音がして、窓の灯火がひとつ消えたときも、動くに動けず、歯ぎしりして待機をつづけなくてはならなかった。  水池二尉が、三度みじかく舌を鳴らし、虹川理事官に話しかけた。 「なかにいる奴らが出てきたらどうするんだ。おとなしく通すのか」 「包囲をつづけるよう命令されている。われわれは命令を守るだけさ」 「だから、先方が包囲を突破しにかかったら、どうするかって尋《き》いてるんだよ」  いらだって水池が声を高めかけたとき、警官隊の間からざわめきがおこった。水池はジープの座席で、虹川はジープによりかかっていた身体をおこして、それを聞いた。 「若い女がいて、助けを求めています!」  この声が、よどみきっていた事態に流れをうんだ。 「管理したがる中央、独走したがる現場」という台詞《せりふ》は、警察にもあてはまる。ついに四人の警官が、決死の覚悟で潜入することになった。防弾チョッキに身をかため、門から這《は》ったり身を低くしてたったりして、彼らはついに建物の蔭《かげ》にへばりつくのに成功した。  割れた窓から、若い女が顔を出した。おびえているようだが、夜目にも、かなり綺麗《きれい》な顔だちをしている。分室の職員か、その家族だろうと思われた。 「テロリストたちはどこにいますか」 「さっき二階にあがっていきました。それから物音は聴こえません」 「武器を持ってますか」 「わかりません、気をつけて下さい、でも一階にいないことは確かですから……」  こうして、割れた窓から警官たちは侵入を果たした。 「こいつはひどい」  ホールに立って、四人の警官は呆然とした。エンゼル・ダストと呼ばれる麻薬を服用したプロレスラーが、集団で暴れまわったかのような惨状だった。綺麗な女の子は、弟らしい少年を抱きしめながら。さらに告げた。 「あそこに大男が倒れています。テロリストのひとりですけど、仲間割れをおこして、何人がかりかでやられちゃったんです」  警官たちは顔を見あわせてうなずきあった。娘と少年に背を向け、薄暗い踊り場に緊張した視線をむけて、銃をかまえなおす。注意力を一点に集中させ、用心深く数センチ進んだとき、天井から災厄が降ってきたのだ。ホールのシャンデリア上からふたつの黒い影が彼らめがけて落下した。  ほとんど一瞬で、警官たちはなぐりたおされ、悶絶して床に這《は》った。 「失礼、あんたたちに何の怨みもないんだけどね」  皮肉でもなく、始は謝罪した。謝罪しつつも、彼らはことを急いだ。警官たちの制服をはぎとり、防弾チョッキを着こむ。狙撃用のライフルを背おう。完壁《かんぺき》とはいえないが指紋もぬぐった。  長すぎるほどの五分間が経過した。  ふたりの警官が、暗い庭に出てきた。ひとりは女性を、もうひとりは子供を、両腕にかかえている。 「あとのふたりは、階段下で二階のほうを見張っています。合図をしたら、さらに六人、突入してほしいということです」 「よし、わかった。このふたりは?」 「とりあえず、このふたりは警察病院に運んだほうがいいでしょう。バトカーをお願いします」  ふたりの警官は、早足でパトカーの一台にむかった。なるべく照明に顔をさらさないようにしている。そのことに気づいたのは、皮肉な観察者に徹していた水池二尉だけだったかもしれない。だが、指示されたパトカーに四人が近づき、乗りはじめたとぎ、運転席にいた警官が、始と視線をあわせた。何かが警官の勘にひらめいた。 「お前ら……!」  何者だ、と、つづけようとしたが、ろくに抵抗もできず、車外に引きずり出されてしまう。あごに打ちこまれたパンチが、警官から声を奪った。警官は吹っ飛び、三メートルほど離れた路面にたたきつけられた。 加害者は充分、手かげんしたつもりだが、被害者はそう思わなかったにちがいない。  わっと叫び声がおこって、混乱が爆発した。ドアが音高く閉ざされ、パトカーはタイヤに悲鳴をあげさせながら急発進した。ハンドルをにぎっているのは、たったいままでぐったりしていたはずの茉理だった。助手席で続が、何か思い出したように問いかけた。 「茉理ちゃん、運転免許、持ってましたか?」 「持ってないけど、運転ぐらいできるわよ。まかせてちょうだい」 「ち、ちょっと待って下さい、ぼくが運転します。席を替わって!」 「だめよ、替わってる暇なんかないわ」  茉理がいうとおりだった。怒りに燃えるサイレンの音が、四方から、強奪されたパトカーを包囲しようとしている。茉理はアクセルを踏みこんだ。前方にまわりこもうとしたパトカーが、あわてて車首の向きを変えようとする。濁音だらけの衝突音がおこって、パトカーのヘッドランプが砕け敢った。 「どきなさいよっ」  茉理が叫ぶ。ブレーキを踏んで急停車した、つもりで、アクセルを踏んでしまっていた。またしても衝突。無秩序な盗難車の動きに、追跡がわも混乱し、右往左往《うおうさおう》し、たがいに衝突するありさまだ。 「ほう、ほう、パトカーを三台、機動隊の装甲車を一台……。ふふん、元気な連中がいるじゃないか。仲間に入れてほしいくらいのもんだぜ」  半分のけぞるようにして、水池は笑った。笑いながら、運転席の部下を押しのける。自分の手でハンドルをにぎる。でたらめな口笛を吹きながら、すでに充分、混乱した六本木通りを、外堀通りの方向へ走り出した。  観客ほどに、出演者たちは楽しんではいなかった。気がつくとフロントガラスは割られ、後部左座席のドアは半分とれてしまっている。ヘッドライトもこわれ、これでパトカー群の追跡を振りきって筑波まで行くのは不可能であるように思われた。 「戦車を乗っとっちゃおうよ」  不意に、余が提案した。竜堂家の末っ子は、半分とれたドアをいっしょうけんめい引っぱっていたのだが、ガラスが砕け敵った窓ごしに、路傍で周囲を脾睨《へいげい》している戦車の姿に気づいたのだった。 「戦車か……」  始は大いそぎでその提案を吟味してみた。  筑波研究学園都市までは、東京から直線で七〇キロほどだ。高速の戦車なら、一時間強で着く。途中の検問を突破することもしやすくなるだろう。  まだ深夜である。夜明けまでに、ことをすべて解決してしまうのも不可能ではない。そう始は思った。理性的に考えたつもりだが、竜堂一族の血が好戦的な方向にかたむいたのかもしれない。第一、戦後日本の歴史上、パトカーを奪って逃走した者はいるが、戦車を乗っとって逃げた奴は、まだいない。どうせなら、歴史上はじめての例になってやろう。そう思ったことも事実であった。  半分廃車になりかけたパトカーが、こわれたドアを路上にこぼしながら走ってきて、いきなり戦車にぶつかってきたから、戦車のほうでは当然おどろいた。昇降口のハッチがあいて、戦車長が上半身を外に出した。 「こらあ、何をするか!」  どなった戦車長を、飛び出した続が、片手で引きずり出し、「乞《こ》う、ご容赦」とつぶやいて路上に抛《ほう》り出した。パトカー群がサイレンの咆哮をまつわりつかせて到着しはじめたとき、すでに戦車は四人組によって強奪されてしまっている。もっとも、車内では、外から思われているほど勝ち誇ってはいなかった。 「ところで、誰が運転するの?」 「運転じゃなくて操縦っていうんじゃないのかな」 「よかったら、わたしがやるわ」  茉理の申し出を、他の三人は、鄭重《ていちょう》に、かつ迅速に辞退した。しかたない、何とか始が操縦するしかなさそうだ。 「ひとつおれにまかせてみんかね」 [#天野版挿絵 ]  車体の横から声がして、いやに愛想のよさそうな顔が、ハッチから四人をのぞきこんだ。始が顔と右腕を出し、うさんくさそうに相手を観察した。 「あんたは?」 「陸上自衛隊第一師団、水池二尉であります。九〇式戦車のあつかいに慣れております」 「何でおれたちに協力するわけ?」 「いやあ、おもしろければいいんだ、おれは。お偉方もいっこうにクーデターをおこしそうにないしね。親兄弟もいなくて身軽だし、ひとつこのお遊びに乗せてくれや」  始は返答に迷った。常識的にいって、そう信用できるような話ではないのだが、戦車の操縦をできる者は、たしかにほしかったし、この男ひとりだけなら、敵対行為に出てもすぐかたづけることができる。 「もうひとつ相談があるんだがな」  すっかり仲間づらで、水池二尉が、タンク・ジャッカーたちを見まわした。茉理に視線をとめて、愛想よく話しかける。 「お嬢さんの拳銃で、おれを威《おど》かしてくれ。そうすれば、おれはいやいや命令にしたがわざるをえんからな。おれの銃は、ほれ、このとおり」  水池は自分の銃を始に差し出した。  始が茉理の顔を見ると、茉理は笑顔をつくってうなずき、マリガン財団の分室で手に入れたコルト・スーパーの銃口を水池に向けた。 「さあ、戦車を動かしてちょうだい。目的地は筑波研究学園都市よ」 「はいはい、脅迫されてはどうしようもありませんな。無念なれどしかたなし、節を屈してテロリストの命令にしたがいましょう」  四人分しか座席がないので、始は外に出て砲塔の上に腰をおろした。そなえつけの機銃に片手をかけ、狙撃用のライフルをひざにかかえた姿は、いかにも兇悪なテロリストに見えたかもしれない。  地ひびきを震わせて動き出した戦車を見て、バトカー群はさすがに仰天した。それでもなお、勇敢な警官がパトカーから走り出て、拳銃を片手に停止命令を出した。 「やかましい! 戦車でひき殺された民間人第一号になりたいか!」  始に恫喝《どうかつ》されて、相手は三歩分ほどの距離を飛びのいた。その鼻先を、戦車の巨体が、時速六〇キロでかすめすぎた。  キャタピラ音をとどろかせ、陸自が誇る最新式水陸両用戦車は、常磐自動車道路へと向かっていく。続が冷たい目で水池を見やった。 「協力してもらって何ですけど、自分が何をやってるのか、あなた、わかっているんですか」 「ばかなことさ」  あっさり答えられて、続は二の旬がつげなかった。この自衛官は、竜堂家の兄弟におとらず、いい性格をしているようであった。いや、年齢が多い分、経験をかさね、おまけに軍人としての知識と技術を持っているときては、竜堂兄弟以上に危険な存在であるかもしれなかった。  戦車は、アークヒルズを右に、ツインタワーを左に見て、外堀通りとの交差点に出た。後方からは、パトカー群のサイレンが遠ぼえをつづけ、左右の自動車は、戦車のまがまがしい姿に唖然としながらも、あわてて、危険きわまる鋼鉄の猛獣から遠ざかろうとする。このため、六本木通りの交通はさらに混乱し、クラクションは鳴りひびくわ、歩道から興蓄したメカニック・マニアの無責任な声援がとぶわ、不幸にもエンジントラブルをおこしたタクシーから、乗客と運転手が逃げ出すわ、急停止によって玉つき衝突がおこるわ、ほとんど香港アクション映画の世界が現出した。  そして、交差点で赤信号に直面した戦車が、律義にも青信号を待っていると、左方向、つまり外堀通りの西北方向から、キャタピラのひびきが轟々《ごうごう》と接近してきたのである。       ㈽  キャタピラのひびきは、戦車の内部にも伝わってきて、せまくるしい座席で、アマチュア・テロリストたちは顔を見あわせた。 「お仲間が来たようですね」  皮肉のつもりで続がいうと、テロリストに加担《かたん》した自衛官は物騒《ぶつそう》な笑いかたをした。 「いや、こうでなくちゃおもしろくない。戦場にはもってこいの地形だぜ、このあたりは」  冗談はさておき、六本木通りと外堀通りの交差点といえば、溜池《ためいけ》交差点として知られる。戦車から見ると、一一時方向には首相官邸があり、四時方向にはアメリカ大使館がある。文字どおり、東京のどまんなかだ。まさかここで戦車どうし市街戦をやってのけるつもりはあるまい。ここは五〇年前のスターリングラードではない。 「とにかく前進」  簡潔に、アマチュア・テロリストのリーダーが命令して、戦車は、おりから青信号に変わった交差点を、猛スピードで渡りはじめた。  首相官邸をかためた警官たちが、あっけにとられて、戦車の行進をながめている。阻止《そし》せよといわれてはいるが、どうやって阻止しろというのか。突進する戦車の前にすわりこみをしろとでもいうのだろうか。  九〇式戦車が時速八○キロで疾走すると、その重量と圧力に抗しかねて、路面のアスファルトがぺらぺらと剥《は》がれてしまう。むろん長時間走行は不可能だが、対戦車ミサイルを回避するためには、理論的に充分なスピードと可動性を有していた。砲塔の上に腰をおろした始の目の前を、首相官邸の黒々とした影が、たちまち通過していく。車内では、水池二尉が続にむかって提案していた。 「どうだ、ついでに首相官邸に一四〇ミリ砲弾をぶちこんでやってもいいぞ。戦前の二・二六事件だって、首相官邸を砲撃したりはしなかったぜ。やれば史上はじめてになるが」 「無用です。あんなのをかたづけても、似たりよったりの権力亡者が喜んで代わりをつとめるだけです。砲弾がもったいないから、むだづかいしないでください」  ということは、いずれ費《つか》うつもりだな、と、胸中で勝手に推量《すいりょう》して、にやりとする水池二尉であった。とにかく、騒動ずきの血がたぎって、自分でも不思議なほど心が踊りまわっている。  首相官邸のなかでは、「あんなの」野ばわりされた初老の政治家が、執務室と閣議室とを、うろうろと歩きまわっていた。いくつもの報告が彼の心をおびやかし、あげくに、永田町方画へ戦車がむかっていると聞いて、首相は音をたてて唾《つば》をのみこんだ。 「ク、クーデターかね」 「いえ、単なる……」  秘書官は表現に窮《きゅう》した。単なる、さて何といえばよいのか。ようやく新語を思いついて答えることができた。 「単なる戦車《タンク》ジャックです。大したことではありません。いま自衛隊が総力をあげて包囲しつつあります。何ごともなく、すぐにかたつくでしょう」 「そ、そうか、単なる……」  いったん言葉を切ってから、首相は、いささか気分を害したように秘書官をにらんだ。 「単なるって、単なるじゃすまないよ。一台、いや、戦車は一両というのかな、一両何十億円もするんだよ。自転車どろぼうとはわけがちがいますよ、君」 「は、軽率なことを申しました。お赦《ゆる》し下さい」 「それで、戦車ジャックをやった連中は、何をたくらんでいるのかね」 「わかりません。ですが、戦重といえば軍事機密のかたまりのようなものですし、もしソ連大使館にでも逃げこまれでもしたら一大事です。絶対に阻止《そし》します」 「もう充分、一大事だと思うがね」  いささか陰気に、首相は指摘してみせたが、すぐにべつの件に関心を移した。 「防衛庁長官の更迭《こうてつ》は、残念だがやむをえんな。後任は、やはり同じ派閥からでないと、しかたないかなあ。まあ恩に着せてやることはできるが……」  首相は、他派ににぎられている軍事方面の利権を、自分の派閥で横奪《よこど》りしたくてたまらないのであった。  首相官邸の外側では、動員された警官隊が、無礼な戦車の横行をはばまんものと必死だった。二〇台のパトカーを総理府前の交差点に並べ、ジュラルミンの盾を並べて道路を封鎖する。事態は切迫《せっぱく》していた。封鎖が完全にすまないうちに、キャタピラ音が急接近してきた。夜の街に、戦車が姿をあらわした。一直線に封鎖線にむけて突進してくる。警察のスピーカーが停止を呼号《こごう》したが、鋼鉄の車体にはね返され、かえって戦車はスピードをあげた。  時速八○キロで肉迫《にくはく》する戦車を見て、警官たちの勇気と責任感も時速八○キロで吹きとんだ。「わあっ」と悲鳴をあげ、パトカーから飛び出す。短距離ランナーのスピードで、左右に逃げ散った。その直後に、戦車はまっすぐ、無人車の横列に突っこんだ。  すさまじい、非音楽的なひびきをたてて、戦車はパトカーをはね飛ばし、押しつぶし、踏みにじって前進をつづけた。  呆然と見送る警官たちの背に、上司の怒声がとんだ。なぜ生命を投げ出してとめなかった、といわれて、警官たちは反発し、上司をとりかこんで興奮した声を投げつけた。 「だったら警視総監が自分でやればいいんだ。何だっておれたちだけが生命を棄《す》てなきゃならんのですか」 「そうだそうだ、総監が自分でやれ」 「平《ひら》ばかり危険な目にあわせて、自分ばかり安全な場所でふんぞりかえってるんじゃねえや。現場に出てこい!」 「そうだ、総監出てこい」  話が妙な方向にすすみかけた。なにしろ、ここ数日、自衛隊の治安出動がおこなわれて、警察は片隅に追いやられていた。不満がつもりつもっている。くすぶった灰に、上司の不用意な一言が火種を投げこんだのであった。  警察が時ならぬ内部紛争をおこしている間に、はぐれ戦車を追って、一〇両の体制派戦車が殺到してきた。先行車がひきつぶしたパトカーの残骸を、もう一度ごていねいにひきつぶして乗りこえていく。逃亡車にむけて、マイクで威嚇の声を飛ばす。停止せねば発砲する、と宣告したのであった。  マイクをとりあげると、水池二尉は、うやうやしく返答した。 「やれるものならやってみろ、あほう!」  このお上品な返答に、戦車隊はいきりたった。だが、たしかに、東京都心で戦車砲をぶっぱなすわけにはいかない。内心では、ぶっぱなしたくてたまらないのだが、後日がこわい。すくなくとも、先に発砲するわけにはいかないのだ。統合幕僚本部からの命令は、こちらからの発砲を禁じている。つぎのような内容の命令が、それにつづいていた。 「多数の戦車をもって、強奪された戦車を完全包囲し、追いつめ、行動を封じて捕獲せよ。マスコミに公表する必要はない。テロリストどもは市ケ谷の本庁内に収監《しゅうかん》し、社会との接触をいっさい断つ」  すでに追う者と逃げる者は、港区から干代田区へと越境していた。日本国の政治中枢をなす一帯である。道路は広く、整然としており、この時期、深夜のことで、左右の重厚な建築物群も無人の静けさをたもっていた。ごく少数の、泊まりこんだり残業をしたりしていた人たちは、キャタピラのひびきにおどろき、現実とも思えぬ深夜のできごとを、目撃することになった。  こうして、お祭り好きのアメリカ映画でも見られない「タンク・チェイス」が、メガロポリス・卜ーキョーの都心で展開されることとなったのである。「歴史的な快挙」と呼べるものかどうか、むずかしいところであった。  深夜のメガロポリスを揺りうごかすキャタピラのひびきは、六本木通りに近い駐日アメリカ大使公邸にも達した。銀髪の大使がベッドに起きあがったところへ、ナイトテーブル上の電話がヒステリックな悲鳴をあげた。  受話器をとりあげたところへ、寝室のドアがノックされ、秘書官がとりみだした声で大使の名を呼びたてた。隣のべッドでは、三五年つれそった彼の夫人が、時間も場所もわきまえない騒霊《ポルターガイスト》たちに対して、呪いの声をたたきつけた。  大使はパジャマ姿のまま、いくつかの報告を受け、いくつかの指示を出してからガウンを着て階下の書斎にむかった。ワシントンDCにいる国務長官に報告するためであった。 「どうもいろいろと、私の理解を絶することが、この国ではおこる」  大使は、唖然と憤然をないまぜにしてつぶやいた。彼はロックフォード財団事務局や、スタンフォード大学や、国務省などで、東アジア関係の職務を歴任した学者肌の老人で、ごくまっとうな政治的外交的感覚を持っていた。あまり非合法活動や破壊工作などにかかわりあいたくなく、現在の大統領になって、外交官の職域にCIAが一段とのさばりはじめたのを、こころよく思っていない。 「マリガンも、ほどほどにするがいいのだ。すでに俗世のすべてを手に入れたのに、このうえ何の欲をかいて蠢動《しゅんどう》しておるのか」  大使の言は、賢者の言というべきであった。ただしそれだけに、残念ながら無力でもあったのだ。       ㈿  剥がれたアスファルトの長い細片が宙に舞う。まるでテープが乱舞するようだ。  深夜の永田町、霞が関一帯は、壮絶なタンク・チェイスの競技場となり、逃げまくる一両を追って、一〇両が縦横にたりまわった。平和になれた道路は、抗議の声をはりあげたが、追いかけっこに夢中の軍人たちには伝わらなかった。 「三号車、外務省の横に出ろ!」 「七号率は文部省と大蔵省の間を前進!」  通話だけ聞いていると、ほとんどクーデター発生かと思われる。竜堂兄弟たちの乗ったはぐれ戦車は、何とか東北方へ逃たしようとするが、そうはさせじと、一〇両がかりで追いつめ、包囲してしまおうとする。  この間、マスコミ界内部も騒然となっている。 「自衛隊の一部がクーデターをおこしたらしいぞ! いま霞が関で戦闘がおこなわれているらしい」  秩序をたもつため、と称して、権力者はすぐに情報統制をやりたがるが、情報の不足は、かならず流言《りゅうげん》蜚語《ひご》を生む。そんなことは、二〇〇〇年以上も昔に、古代中国の賢者が指摘しているのだが、権力者の心理構造は、いっこうに進歩しないものであるらしい。  警視庁も極度の緊張につつまれた。下っぱ警官たちの要求がとおったわけでもないが、タンク・チェイスは桜田門方面へと移動しつつあった。警視庁の玄関前には、呼集《こしゅう》をかけられた警官が、緊張と不安に息をひそめていたが、突然、連続した銃声が彼らをはっとさせた。  はぐれ戦車が発砲したのである。一四〇ミリ主砲ではなく、砲塔に付設された機銃であったが、一○時方向から肉迫してきた一両のキャタピラにむけて銃弾を撃ちだしたのであった。しつこい追手に舌打ちした続が、ハッチから上半身を出し、機銃のあつかいかたを水池から教わって撃ったのである。数発の銃弾が路面で煙をあげると、戦車は大あわてで方向を変えた。それがあまりに急だったので、車道をはずれて歩道に乗りあげてしまう。  歩道に乗りあげた戦車は、街灯に衝突してく[#「く」に傍点]の字にへし曲げてしまった。あわてて方向転換しようとする。まず後進して車道に出ればよいのだが、興蓄と狼狽にはさみうちされているから、冷静な判断ができない。回転させる必要もない砲塔を回転させると、勢いよくまわった主砲の砲身が、べつの街灯にぶつかって、それ以上回転できなくなる。  いくら訓練やシミュレーションをかさねたとはいっても、実戦経験はないのだ。実弾を撃たれたことも、はじめてであって、この点は暴力団の抗争を経験した警察のほうが、実戦の勘みたいなものを持っているかもしれない。といって、やたらと自衛隊に実戦経験を持たれたりしてはこまるが。  もう一両の戦車が、はぐれ戦車に肉迫してきたが、これまた車体に着弾の音がたつと、大いそぎで方向を変えようとした。そのすぐ後方に、もう一両の戦車が接近しており、先行車に追随しようとしてまにあわず、はでな音をたてて追突してしまった。三両めがそこへ走ってきて、要領の悪い仲間を追いこそうとしたが、二両めの砲身が横へ突き出たのをかわしきれず、これまた音たかく砲塔をぶつけてしまう。  大混乱の地上をあざ笑うように、ヘリの爆音が近づいてきた。  それは横田基地から飛びたったアメリカ軍のヘリコプターであった。三機で編隊を組み、夜空を引き裂いて近づいてくる。  もともと赤坂九丁目、マリガン財団分室にむかっていたのだが、テロリストたちがすでに脱出したとの報を受け、急行してきたのであろう。星のマークを視認しながら、始は推測した。ハッチから上半身を出した続も、同意見であった。もう一機ぐらい同時出動したが、分室に着陸して事後処理にあたっているのではないか。 「まさか都内じゃ発砲するまい。だが、東京を出たらわからんな」  始がつぶやくと、続もうなずいた。兄弟の会話を耳にした運転手兼ガイドが、無責任に提案した。 「何なら撃ち落としてやろうか。うまくいけば第二次太平洋戦争がはじまるぞ」 「うまくいかなくて、けっこう。それより、先に進んでくれ」  始にしてみれば、目的は弟を救出することにあるので、わざわざ戦争をおこす必要も趣味もない。もっとも、むこうからしかけてきたら、隠忍自重《いんにんじちょう》して平和を守ろうとも思わないのだ。  さいわい追尾の戦車群を、すこしは引き離した。現在場所は、いつか警視庁前を通りすぎて、左に日比谷濠、右に日比谷公園である。政治中枢から経済中枢へと移動しつつあるわけだ。ほとんど「はとバス」の観光コースじゃないか、と思って、いささか始は、ばかばかしくなってきた。さらにばかばかしいのは、運転手兼ガイドを買って出た自衛官で、マイクごしに上官と漫才をやっている。 「水池二尉、そこにいるのはわかっとるぞ。おとなしく戦車をとめろ」 「一佐どの、自分は兇悪なテロリストに銃で威《おど》かされているのであります。まったく、やむをえず、彼らにしたがっているのであります。おぼれてる一殿市民より、艦上の自衛隊員の生命がだいじ、これ常識であります」 「何を世迷言《よまいごと》をいっとるか! お前が自分のほうから戦車に乗りこんだという証言があるのだぞ」 「テロリストをとらえようとしたのであります」 「それで逆につかまったというのか! 勝てるかどうかの判断もつかんのか、お前は」 「太平洋戦争のとき、日本軍もアメリカに勝てるつもりだったのではないでしょうか」 「もういい、テロリストどもを出せ! 直接、話をする!」  そごで水池二尉はマイクを誰かに渡そうとしたが、一佐なんてものをありがたがる者はひとりもいなかったので、会談は実現しなかった。そして進みつづけ、数寄屋橋、八重洲、江戸通りとたって両国橋を渡りかけたとき、いきなり空中から銃撃を受けた。ヘリの機体に赤い点がひらめき、地上では着弾音がひびく」 「撃って来やがった。何と非常識な奴らだ」  水池はののしったが、これほど説得力に欠けた台詞《せりふ》もめずらしい。だが、たしかに、隅田川の河上とはいえ、都内で発砲してくるとは思わなかった。このとき、午前一時ごろである。  路面にバルカン砲の弾列がうがたれる。狙《ねら》いをはずしたのか、それとも威嚇か。はぐれ戦車は、橋上をゆるやかに蛇行《だこう》しつつ、銃撃をかわした。 「兄さん、あぶない、伏せて!」  続が叫んだ。車外の始は、砲塔の蔭に身を伏せたが、それほど危険は感じなかった。本気の攻撃なら、対戦車ロケットでも撃ちこんでくるだろう。そのとき、橋上《きょうじょう》に、警察が封鎖線をしいて待ち受けているのがわかった。 「いけ、アイアン・ドラゴン!」  余が叫んだ。いつのまにやら戦車に名前までつけてしまっている。おとなしい、おっとりした子であるはずなのに、やはり竜堂家の一員だ、というべきであろうか。 「冗談じゃない、終がふたりになっちまう。これから将来《さき》おれの手に余るぞ」  だじゃれをいうつもりもなく、始は思った。  余の激励を受けて、はりきったアイアン・ドラゴンは、猛然と橋を揺らして突進した。  ついに警官隊は発砲した。二〇丁をこす制式拳銃が、火線を案中させ、銃声と跳弾《ちょうだん》が乱反射する。だが、アイアン・ドラゴンは、それをものともせず、防御線を突破し、盾やパトカーをはね飛ばし、警官たちを追い散らした。幾人かは、橋の欄干《らんかん》をとびこえてダイビングしたようである。始は砲塔の蔭に隠れて無傷だったが、常人なら流れ弾で負傷するのはまぬがれなかったにちがいない。  パトカーの残骸と、呆然白失の警官隊を橋上に残して、アイアン・ドラゴンは墨田区内にはいった。その報を受けて、首相官邸の人々は、いろめきたった。 「首相、どういたしますか」  血相を変えた官燎たちにつめよられても、首相はどこかぼんやりと見返すだけだった。 「首相!」 「ああ、ええと、ことは非常に重要でありまするので軽々に判断を下すのはさしひかえるべきではないかと思いつつ日本は法治国家でございまして社会秩序を守ることは国民の生活を守るためにも肝要だとの思いを深くしておるわけでございますがといって平和主義とのバランスにも思いを致さざるをえずシュクシュクとして情勢を見守りたいというのが正直なところでございますとはいえこれで万全とはいかないのではないかなと自らをかえりみるにやぶさかではないと申しあげておくべきかと愚考《ぐこう》しておるところでございます」  後半になると、首相のいうことなど誰も聞いていなかった。首相はパニックをとびこして、精神の箍《たが》を一時的にはずしてしまっている。そのことが誰の目にも明らかだったからであった。顔を見あわせた 官僚たちは、執務室の隅にかたまった。 「このままでは東京が戦場になってしまう。アメリカ軍の独走をおさえなくてはならん」 「まかりまちがって、自衛隊とアメリカ軍が偶発戦闘にでもなってみろ、手をたたいて喜ぶのはソ連ではないか」 「いっそあの強奪された戦車を、わが国の手で破壊してしまうべきではないか。もはや無血で解決というわけにはいかんぞ。テロリストどもは狂人ということでかたづけ、すべてを闇に葬ってしまえばよい」  低声での相談がかわされた。 「だとすれば、あの戦車を、さっさと東京の外へ出してしまうべきだ。阻止するなど、百害あって一利もない。東京の外へ出し、夜明けまでに完全に処理してしまえ」  いちおうの結論が出て、官邸を中心とした通信網は、国家の威信と体制の利益を守るべく決意した官僚たちによって、しばし占領された。  逃亡戦車に、江戸川はこえさせてやる。決着はそれからだ。午前三時までには、首都圏は平穏にもどっているだろう。そう彼らは予定をたて、それを実行に移しはじめた。 [#改ページ] 第六章 |真夜中の破壊者たち《ミッドナイト・デストロイヤーズ》       ㈵  マリガン財団東京赤坂分室がテロリストに急襲された。その報は、さすがにレディLの平静さに刃こぼれを生じさせた。テロリストの正体が、彼女にはわかったのである。これほど大胆で直載的《ちょくせつ》な攻撃をしかけてくる者は、ドラゴン・ブラザーズしかいない。何と苛烈な若者たちであることか。ふつうなら手をつかねて、相手からの連絡を待っているであろうに。 「あ、ちくしょう、おれも赤坂にいたかったな。おれのいないところで、おもしろいことをやられると癪《しゃく》だなあ」  知らぬが竜、とでもいうのか、終は、のんびりとそう感想を述べた。だが、すぐに彼も、レディLと同じ見解に達した。そうか、いよいよおれの分身たちが行動を開始したらしい。とすれば、おれも、こんなところで年寄りたちを相手にしちゃいられないな。そろそろここから出て行くとしようか。  終に年寄りあつかいされたとはつゆ知らず、レディLは脳細胞をフル回転させた。竜堂兄弟が分室を襲ったのは、誤解から発したことだが、結局、正答にたどりついたのだ。この上は、彼女の打った策《て》が彼らに先んじることを祈るしかない。スピードの勝負だ。  蜂谷が彼女に紳士ぶった声をかけた。 「レディL、すこしはお役に立てそうですな。私におまかせいただければ、こうるさいマスコミの口を封じてごらんにいれますよ」  情報操作は、蜂谷の得意技である。というより、日本のジャーナリズムにとって、きわめて有効な技というべきであろう。 「日本の公安警察は、まことに特異な能力を持っている。政府高官の汚職や疑獄がおおやけになった直後、かならず外国のスパイが逮捕されたり、過激派の犯行が明らかになったりする」  そうアメリカの新聞が皮肉ったことがある。一九八八年にR事件とよばれる新興企業がらみのスキャンダルがおき、首相や大蔵大臣の名前が事件に出てくると、いきなり「フィリピンの日本人誘拐事件は日本の過激派のしわざだった」というニュースが発表された。一時は大さわぎになったが、その後、何の続報もなく、いつのまにやら話は立ち消えになってしまった。こんな例はいくつもあって、公安警察のやりくちはワンパターンなのだが、マスコミがまたそのつど、ほいほいとじつによく踊るのである。お隣りの国でおきた「旅客機行方不明事件」も、いつのまにか「旅客機爆破事件」になり、「美貌の女スパイ事件」になり、「拉致《らち》された日本人女性事件」になって、さて肝腎《かんじん》の旅客機と乗客はどうなったのやら、ろくに捜索もされぬままに、いつのまにか人々の記憶は薄れてしまったのだ。何と御《ぎょ》しやすいマスコミであり、何と忘れっぽい国民であろう……。  そのことをよく知っているから、レディLは薄く笑ったが、他の者にその笑いは見えなかった。彼女は蜂谷にうなずいてみせると、応接テーブル上のリモコンをとりあげて、二九インチTVのスイッチを入れた。二度ほどチャンネルを変え、深夜ニュースの充実を売り物にしている民放の一局を選んだ。 「ただいま六本木、赤坂など都心の一帯で、大きな騒動がおこっているようです。政府はいまだ公表をしておりませんが、もれきくところによると、自衛隊の戦車が一両、テロリストに強奪されたとか……一説では、テロリストの数は三、四人といわれております」  キャスターの興奮した声を聞いて、終はもはや疑いを持たなかった。 「ずるいや、兄貴たち、おれのいないときに、あんな楽しいことをするなんて。おれだって筑波なんかより六本木で暴れたかったのになあ。ローカル・ドラゴンよりアーバン・ドラゴンがいいに決まってらあ」  とんでもない慨歎《がいたん》をしてから、終は、毛が長すぎるカーペットを踏んで歩き出した。ドアのノブに手をかける。鍵がかけられているが、終にとっては問題ではない。 「どこへいくの、ドラゴン・ボーイ?」  底びかりする眼光で、それでも口調には抑制をきかせたレディLがたずねた。 「決まってるだろ。兄貴たちに合流するのさ」 「仲がいいこと」 「ふふん、だって他に誰もおれにこづかいくれないもんな」  一瞬、レディLは反応を選びそこねてしまった。 「……でも、あなたのご兄弟たちは、あなたが筑波にいるものと思ってるのよ。だからこっちへ向かってるのでしょ。あなたがここを出ていったら、すれちがいになるかもしれないわ。ここで待っているほうが確実ではないの?」  巧妙な説得だったが、終はレディLの策《て》に乗らなかった。  兄弟たちが終を捜し出してくれるのを待つ必要はない。終が出ていって兄弟たちを捜せばよいのである。なにしろ彼の兄弟たちは、戦車を乗っとって、戦車群に追われているのだ。はでな大騒動がおこっている場所をめざせば、感激の兄弟再会は可能だ、というわけであった。だが、そういう計算を口に出して、相手を有利にしてやるほど、終はまぬけではない。ノブから手を離し、レディLの言葉に考えこむふりをして見せた。視線が田母沢にむかう。田母沢は、ぎらぎらと脂《あぶら》を浮かべた目を終に向けていた。こいつはおれを食べる気じゃないだろうか、と、本気で終は疑った。 「そうだな、でも、ここはその蛙じいさんの本拠地だろ。おれの珠玉《たま》の肌に傷をつけたがってるような奴と、仲よくお茶を飲む気になれないよ。しびれ薬でも入れられたら、たまりゃしない」  終白身は知らないことだったが、この一語はレディLに対して強烈な皮肉になった。彼女が返答しかけたとき、電話が鳴った。終の身に対する所有権を主張しようとしていた田母沢が、ややあって受話器をとりあげた。  電話の主は、関東技術科学大学の副学長|高沼《たかぬま》勝作《しょうさく》であった。原子力発電にからむ利権の中心にいる男で、原子力発電所がひとつ建設されるたびに、億単位の謝礼やリベートを手にするといわれる。反原発運動のリーダーをおとしいれるためにスキャンダルをでっちあげたり、匿名の脅迫状を集中的に送りつけたりする行為を組織化している人物でもある。派閥としては、田母沢と敵対する立場にあった。その高沼が、いったい何の用か。  二言三言のうちに、田母沢の声が荒々しくなった。怒気で老顔を赤黒くし、ひときわ大声で電話の相手をののしると、受話器をたたきつける。そのありさまを見守っていた蜂谷が、鄭重《ていちょう》をよそおって尋ねた。 「どうなさいました、田母沢先生、よほどにご不快なことがおありのようですな」 「高沼の奴め、自分がこの学園都市の主であるとでも思いあがっとるのだ」  田母沢がわめいた。高沼に対する怒りが、蜂谷への不快感を一瞬、忘れさせたらしい。大亜製薬筑波研究所、すなわち田母沢の研究所で何か奇妙なことがおこっている、と、巡回のガードマンから連絡があったので、朝になったら事情を説明に来られたし、というのである。高沼は、官民共同の学園都市管理センターの運営委員長であるから、権限がないわけではない。だが、あえて呼び出しを予告したのは、明らかにいやがらせである。  田母沢にしてみれば、高沼の権限で研究所内に踏みこまれては困る。生体解剖や人体実験の証拠を高沼ににぎられては、弱みをわしづかみにされることになる。高沼も、権力あらそいの武器として、竜堂兄弟の身柄をほしがっているのだ。何か勘づいてのことかもしれない。もし竜堂終の身柄を引きわたさねば、生体解剖の事実を公表すると威《おど》かされたら、どうにも対抗しようがない。おのれ、どうしてくれよう……。  悪党が悪党を憎んで煩悶《はんもん》する姿は、なかなか観物《みもの》であったが、レディLとしても、そう高処《たかみ》の見物を決めこんではいられなかった。彼女が打った策《て》は、まだ生きていない。横田基地から飛びたったヘリは、まだここに着かないのか。  両手をジーンズのポケットにつっこんだまま、終はさりげなく窓に近づいた。絶妙のタイミングだった。レデイLの注意力も、田母沢の執念も、ほんの一瞬、わが身に向けられていて、終の動作に気づいていたのは蜂谷だけであった。そして彼は、終の真価に対し、三人のうちでいちばん無知であった。蜂谷の視線を自分の視線でつかんだせつな、終は床を蹴り、窓にむかって身を投げ出した。 「あ……!」  蜂谷がうめき、その声に、他のふたりが窓を見やる。  はなばなしい音をたてて硬質ガラスが砕け、夜空にむかって無数の破片をなげうった。瞬間、宙に躍った終の姿は、地球の重力に引かれて落下した。その寸前、応接室の三人にむかって不敵に徴笑してみせたようである。 「ばかな! ここは五階……!」  絶句したのは蜂谷で、レディLの返答は、彼にとって非常識であった。 「そんなこと、何の意味もないわ、あの子にはね」  その声が、呆然とした蜂谷に、悪い意味での官僚的性格を回復させた。彼はわざとらしく眉をあげ、上司格の女性の失策をつついた。 「ほう、するとレディLは予測しておられた。ではなぜ逃亡をふせぐ処置をなさらなかったのです」 「このていどのこともできないようなら、あの子を欲《ほ》しがる理由もないからよ」  そういってから、レディLは内心で苦笑した。負け惜しみと自己正当化の意図から発した一言だが、意外に正鵠《せいこく》を射たことに気づいたのである。彼女はやや口調を変えてつづけた。 「わたしからもうかがいたいわ、ミスター・ハチヤ、彼が窓に近づくのを知りながら警戒をおこたった理由をね」  割れた窓から夜中の風が吹きこんだ。三人三様の失望と利己主義を笑いとばすように。       ㈼  地上二〇メートルから落下した竜堂終は、一〇秒後、大亜製薬筑波研究所の敷地から脱出を果たしていた。落下の途中、移植されたばかりとおぼしい松の木の枝で一転し、芝生に着地すると、珍しいことにポーズもつけず、すぐさま走り高とびの競技にはいる。高さ四メートル、ガラスの破片を植えつけたコンクリートの壁めがけて走り、跳躍した。  獰猛《どうもう》な咆哮をあげて、三匹のドーベルマンが、選手めがけて走りよる。弓から放たれた矢のような勢いだ。ドーベルマンのような犬種を飼うことが、悪党のステータス・シンボルになっているのかもしれない。だが空中五メートルの高さに牙はとどかない。  塀の外に飛びおりると、ドーベルマンの声も遠ざかった。終の前方に、よく整備された広い道路が横たわっている。夏の夜の下に、広大な人工都市は暗く静かに眠っていた。  終が速い足どりで歩きはじめたのは、学園東大通り線と呼ばれる道で、左右には大学のキャンバスや研究所の敷地が展開し、街灯の他は明りとてない。あてずっぽうにジョギングを始めようとしたとき、静かな夜をけたたましい爆音のナイフが切り裂いた。肩ごしに振りむいた終は、接近してくるライトの集団に気づいた。奇声も聴こえる。一〇台や二〇台の数ではない、バイクと改造車の群が走ってきた。  それは「ゼンゴクレン」と称する暴走族の集団であった。正式には「全[#「全」に傍点]日本極[#「極」に傍点]悪路上レース愛好連[#「連」に傍点]盟東関東支部行動隊」というのだが、メンバーのなかで自分たちの正式名称をいえる者は、めったにいない。彼らが終に目をつけたのは当然だった。この深夜、こんな場所を散歩するような酔狂《すいきょう》者に、無関心ではいられなかった。バイクの速度を落とし、口笛を吹き、奇声をあびせかける。うんざりしながらも、いちおう礼儀ただしく終は尋ねた。 「すみません、東京はどっちですか」 「おい、聞いたか、東京はどっちかだとよ。このいなかもんが」  どっと下卑た笑いがおこった。  相互主義者らしく、終はそれに応えた。相手が礼儀ただしくふるまえば、こちらもていねいに頼むつもりだったが、終が直面したのは、衆を恃《たの》んだ一方的な悪意だけであった。終をなぶり、困らせてやろうという意図が見えすいている。 「悪いけど、借りるぜ」  口調を変えて、ごく簡単に終は宣告した。 「借りるって何をよ」  虫歯だらけの口をあけ、終にむかって唾をはこうとしたサングラスの男がいる。ひょいと終はその男を持ちあげた。ベルトを左手でつかんで頭上に持ちあげたのだ。奇声がぴたりとやみ、ゼンゴクレンの一同は、仲間がビーチボールのように草地に放り出されるのをぼやっとながめていた。彼らがわれに返ったのは、少年がバイクに飛びのり、一目散に走り出したからである。 「逃がすな! あの嬬子《こぞう》を逃がしたら、ゼンゴクレンの面子《めんつ》が立たねえ」  サブリーダーがわめき、振りおろしたチェーンで路面を打った。バイクの排気音が、学園都市の静寂をあらためてたたき破った。四〇台のバイクと、六台の改造車とは、バイクを失った仲間がわめきたてるのに見向きもせず、狂熱に駆られ、無人の道路いっぱいに広がって走り出した。  筑波研究学園都市は、閑静で環境が整備された学問修業の場であるはずなのだが、追う者と追われる者にとっては、現実が理念に優先した。終は一刻もはやく兄弟たちと合流したかったし、ゼンゴクレンのメンバーたちは、憎悪と殺意で目がくらんでいた。  逃亡者をとらえたら、寄ってたかってなぐりつけ、切りきざみ、なぶり殺しにしてやるつもりだった。もともと、自分ひとりでは何もできないから、集団で行動しているのだ。たったひとりに多勢で私刑《リンチ》を加えることに、何らためらいはなかった。  終のほうも、この場合、道義的にすぐれているとはいえなかった。オートバイは他人のものだし、第一、まだ一五歳だから自動二輪免許も持っていない。天性の運動神経と、見よう見まねの記憶が頼りである。テクニックどころではなかった。余裕を持って追いついたゼンゴクレンのメンバーが、奇声をあげて木刀を振りかざし、終の左肩に振りおろした。強打をあびせた。肩の骨が折れ、バイクごと転倒するはずであった。だが、終は、めんどうくさそうに相手をながめやり、無力で無益な攻撃を鼻先で笑いとばしただけである。絶句したメンバーが、慎怒の形相になって、ふたたび木刀を振りかざしたとき、事態が急変した。  いきなり爆発音が生じ、オレンジ色の光が炸裂したのだ。  何がおこったか、とっさには理解できなかった。バイクとはべつの爆音が空中にあった。急降下してきたヘリコプターが、明確な悪意をもって、暴走族の隊列をなぎはらったのだ。数台が同時に転倒し、ぶつかりあい、ガソリンに引火して爆発したのである。終はバイクを走らせながら、肩ごしにその惨状をかえりみた。 「あいつらの手下かよ。しかしまあ、はでずきな連中だよな、まったく」  あいつらというのは、レディLとか田母沢とかいった輩《やから》の総称である。彼らがたがいにいがみあっているにせよ、終の目から見れば、しょせん同じ船に乗った仲間どうしでしかない。ヘリから太いワイヤーが伸ばされ、先端についた大きな釣針《つりばり》状のフックが、終めがけて接近してくる。  終の脳裏に、ひとつの考えがひらめいた。逃げるばかりが能じゃない。敵の悪意を逆用してやろう、と思ったのだ。頭を低くして、フックをやりすごすと、遠ざかろうとするフックにすばやく左手を伸ばした。  フックに左手がかかる。オートバイのハンドルを離す。座席に立ちあがる。つぎの瞬間、終はロープにすがりつき、フックに左足をかけて空中の人となっていた。  これならいい。縛られて吊りさげられるのは願いさげだが、これなら身の自由がきく。してやったりという気分の終の足下で、乗り手を失ったバイクは、慣性のままに直進をつづけていた。  たてつづけの変事、兇事、意外事に動転しつつも、終に対するゼンゴクレンの敵意は消えていなかった。地上すれすれに低空を疾走する終に、リーダーがバイクを寄せてきた。意味も知らないくせに「七生報国」などと書かれた鉢巻《はちまき》をしめているのが笑止《しょうし》である。  りーダーの手にチェーンが光った。大声で何かわめくと、リーダーはチェーンを振りまわした。狙いは正確だった。空中にいる終の右足首に、チェーンがからみついた。  終の身体は、ヘリからのワイヤーと、リーダーのチェーンと、両方の方向に引っぱられた。リーダーが残忍そうな笑声をくぐもらせた。終が耐えかねて手を離し、猛スピードで路面にたたきつけられる光景を確信して勝ち誇っていた。さらにその後、路面をひきずって、ぼろきれのように惨死させてやるつもりだったのだ。  だが、その光景は実現しなかった。終はバイクに引きずられなかったのだ。 「おれはもう充分、脚が長いよ。これ以上、ひき伸ばしてもらう必要はないや」  そして、チェーンにからまれた脚を、思いきり横に振ったのである。  リーダーは手を離せばよかったのだ。だが、彼はものごとに徹底する性格だったので、左腕にチェーンを三重四重にからめ、手にかたく握りしめて、死すとも離さじ、との執念を実行していたのだった。  リーダーの身体は、オートバイの座席からはじき飛ばされ、宙に舞った。終より二〇キロも重い大の男が、自分のほうこそチェーンにからみとられ、逃がれる術《すべ》もなく、破局に直面したのだ。  路面に落下しかけるところへ、仲間のバイクが突っこんできた。最大限に口をひらいて絶叫し、回避しようとしたが、まにあわない。人体とバイクが衝突し、リーダーの身体はサンドバッグのように宙にはね、バイクは横転した。  さらに衝突がおこり、閃光、爆発音、炎、そして悲鳴が連鎖《れんさ》した。ゼンゴクレンにとって、はなばなしい災厄《さいやく》の夜となった。終の足下を、転倒したバイク、炎上する改造車、路面でうめく負傷者などの姿が通過し、不運なりーダーの身体が踊りまわった。  終は右足首にからみついたチェーンを、身をかがめて解いた。リーダーの身体はチェーンとともに路上に残された。へリが高度をあげた。ゼンゴクレンとちがい、終にとってはまだ何もすんではいなかった。       ㈽  竜堂家の三男坊が筑波で無料のスタントショーを開いているころ、無敵戦車アイアン・ドラゴンに搭乗《とうじょう》した五人組は、江戸川の水面にいた。  封鎖線が橋上にしかれていることを予測し、水元《みずもと》公園から江戸川にはいったのだ。幾組かのアベックや住所不定の人たちをおどろかせ、のら犬に咆えられながら、自衛隊が誇る水陸両用戦車は、江戸川の暗い河面を渡りはじめた。すっかり喜んだ余がハッチの外に出ると、長兄に並んで砲塔に腰かけた。心地よい川風に吹かれていると、不意にアイアン・ドラゴンの車体ががくりと揺れた。すこしとまってからまた前進をはじめたが、やがて続が水池二尉を詰間《きつもん》する声が聴こえてきた。何と、車内に水がはいってきたらしいのである。 「この戦車は水陸両用のはずでしょう。何だって浸水なんかするんです!?」 「いや、こいつはまいったな」  水他二尉の声は明るかったが、いささかやけっぱちにも聴こえた。 「どうも河底に石でもあったらしいな。それも大きくてとがったやつが。でもって、腹を突き破られたんだ」 「石……?」  さすがに続もあきれた。石で腹部を突き破られる戦車が存在するとは。そんなに装甲が薄いのでは、地雷を踏んだりしたらもうおしまいではないか。 「何十億円もかけて一両の戦車をつくるんでしょう? いったいどの部分に費用をかけるんですか」 「|快適な居住性《アメーティ》って部分にさ。エアコンがきいてて涼しかったろ?」  いわれてみれば、そのとおりだった。 「車内にエアコンを設置すると、どうしてもそのスペースの分、装甲が薄くなっちまうんだ。だから地雷なんぞをくらえば一発でアウトさ。こいつは重要な軍事機密だからな、うっかりしゃべったりしたら闇に消されちまうな」 「軍事機密じゃなくて軍需機密だろう」  始は訂正した。ハッチから車内をのぞきこむと、江戸川の水がホースから噴き出るように車内をひたしつつある。続も茉理も、さすがに処置に困りはて、始の顔を見あげて申しあわせたように肩をすくめてみせた。始にもどうしようもない。はやく対岸に着いてもらうしかなかった。 「しかし居住性優先の戦車とはなあ」  さすがに始が慨歎すると、操縦をつづけながら、水池二尉がにやりと笑った。 「まあね、それでけしからんと思うかい、お前さん」 「いや、そうでもない、逆よりずっといい」  乗員の居住性をよくするため、戦車にエアコンをつける、そのために腹部の装甲を薄くする。兵器としては、たしかに本末転倒だが、何となくおかしくて、本気で怒る気になれない。もう一歩、踏みこんで考えれば、こんな戦車を発注する自衛隊も、生産する兵器産業のほうも、真剣に戦争などする気はなく、巨額の軍事予算を仲よく分配して共存共栄しているというわけではあるが。 「そのあたりは、おれもあんまり、うかつなことは口にできないな」  いまさらながら水池は良識派ぶってみせたが、ごく短時間しかもたなかった。 「だが、まあ、アメリカの国防総省《ペンタゴン》汚職事件でもわかるとおり、軍隊と軍需産業との間には、いつだって汚れた橋がかかってるもんさ。リベートと無縁な軍隊なんて聞いたことがない」  いう間にも、江戸川の水は浸入をつづけ、ようやっと対岸に達したときは、立ちあがった茉理の腿《もも》まで水につかってしまっていた。砲塔上の始と余まで、靴を濡らすはめになった。 「ここまでだな」  水池が宣告した。水びたしの操縦席から立ちあがると続と茉理に、上へあがるよううながす。 「岸には着いたが、岸に上ることはもうできん。坊やが名づけてくれたアイアン・ドラゴンの最期だ」  名づけ親の少年は、やや哀しげな表情になって、車内をのぞきこんだ。「さよなら、ありがとう」と、生物にむかうようにつぶやく。その身体を抱きあげて、始が護岸《ごがん》の堤防の上に放った。宙で一回転してきれいに着地した余を見て、水池が「ほう」と感心した。 「ぼくがようすを見て来ます。兄さんたちは、待機していて下さい」  ふわりと続は闇に舞い、音もなく護岸の堤防の上に着地した。ここはもう千葉県松戸市のはずだ。都内に比べればまだ空が広く、夜気のなかで自然が人工に抵抗をつづける気配を感じとることができる。  学佼や住宅の合間に、林地や草地がひときわ黒く暗くわだかまっている。用心しつつも軽快に進んで、続は、半ば予測していたものを見出した。夜のなかで、自衛隊員たちがかたまり、黙々と作業にしたがっている。命令する上官の声も、ささやくようだ。 「なるほどね、東京を出たところで結着をつけるつもりですか」  魚網《ぎょもう》のようなものが、幾ダースも用意されている。これで戦車をからめとって自由を奪うという作戦だろう。あとは戦車そのものを破壊するより、乗員を無力化することを主眼とする。ガス弾らしきものや擲弾筒《てきだんとう》の列を確認すると、続はやはり音もなく後退した。  提防の蔭で待っていた兄たちに、偵察の結果を報告する。 「ま、妥当《だとう》な作戦でしょうね。ぼくが自衛隊の幹部でも、そうしますよ」  最後にそう結論づける。水池二尉は、砲塔だけを水面上に残して水没したアイアン・ドラゴンをながめつつ、にんまりとしたようだった。 「もっとも、先方が力ずくで解決をはかる気なら、ぼくが鄭重《ていちょう》に思い知らせてあげてもいいですけどね」  続のいうごとは過激である。彼自身が、竜身に変化して全能力を解放すれば、自衛隊などとるにたりぬ、といいたげであった。 「あとのことを考えろ」  短く、それだけを始は答えた。水池にくわしい話を聞かれてはこまるし、実際、ひとたび変化したら、後の処理が楽ではないのだ。 「兄さんがいてくれると思うと、つい安直になってしまいます。すみません。でも……」  そこで言葉を切って、続は考えてしまった。自分が竜身に変化したときは、兄が人身にもどしてくれた。その兄が竜身に変じたときには、誰がどうやって人身にもどせばよいのだろう。これまで考えたこともなかったのはうかつだった。鋭敏で怜悧《れいり》な続だが、兄の存在は物心ついていらいのものだったので、もし兄が長兄としての指導力を発揮できなくなった場合のことは想像の外にあった。考えたくもなかったが、通りすぎるわけにはいかないことであろう。そのときは当然ながら、次兄の責任がいちじるしく大きくなるわけである。  不意に余が勢いよく立ちあがった。あわてたように周囲を見まわす末弟を見て、長兄も次兄も従姉も半ば腰を浮かした。 「どうした、余」 「金魚どこかへやっちゃった」  せっかく哲学堂の夜店で手に入れた金魚を、余は失ってしまったのだった。 「あ、そういえば余君、金魚の袋を持ってないわね」  万事よく気のつく茉理も、さすがにこの夜は平常心を欠くところがあったようである。 「誰かがひろってくれてるといいけど。学校まではたしかに手にさげてたんだよ。でも、そこからよく憶《おぼ》えてないんだ。死んじゃったりしたらかわいそうだな」 「そうですね、きっと誰かがひろっててくれてますよ。終君あたりに食べられるより、金魚にとっては幸せですよ」  いあわせない三弟を三枚目にしたてて、続は末弟をなぐさめた。くすりと笑って、余は次兄のなぐさめを受けいれたが、笑いをおさめると、何やら思い屈したような表憤になった。おっとりした子にしては珍しいことであった。 「ね、始兄さん」 「何だい」 「ほら、ぼくたち、他の人たちとすこしちがうでしょ。べつに気にしてるわけじゃないけど、わけじゃないけどね、それっていけないことなのかしら。他の人と何でもいっしょにするようにしたほうがいいのかな」  ああ、やっぱり気にしていたのか、と思うと、始は、とんでもない運命をせおった末っ子がかわいそうになった。続と視練をあわせる。茉理はかるく息をのんだ表情で、ジーンズのひざにのせた両手をにぎっていた。  水池は離れたところにいるが、彼に聴かれないよう、始は声を落とした。表現にも慎重を期した。これは余のためにでもあった。 「おれたちはすこし他の人とちがってる。それは確かだけど、だからといってそれが悪いことだとはいえない。ちがうといえば、何十億人かの人間が、ひとりひとりみんなちがうんだ。肌の色も髪の色も、言語も習慣も、政治や社会に対する考えかたも、みんなちがう。おれたちが他の人たちとちがうってことは、例がすくないというだけのことなんだよ。悪いことをしてるわけじゃない。恥じる必要もない。わかるね?」 「うん、わかるつもりだけど……」 「たとえば、目が見えない人は、目が見える人にくらべて、ずっと数がすくない。すると、目が見える人が正しくて、目が見えない人は悪いのだろうかね」 「ううん、そんなことはないよ」 「そうだろう。数がすくないということは、悪いことでも何でもない。むしろ人間の多様さをしめすものだ。少数だから悪い、と決めつける奴がいたら、そいつがおかしい」  自分が論理的にまちがっていないかどうか、完全な自信が始にあるわけではなかった。だが、昔、続に対してもそうだったように、始は弟の心理的な負担を軽くしてやらねばならなかったのだ。 「だからな、余、だいじなのは、お前が、他の少数者に対して思いやりを持つということなんだよ。自分が少数者だと思えば、他の少数者に対しても、理解をもつことができるはずだ。これは、多数派という立場に安住して少数派を疎外するより、たぶん、ずっとりっぱなことだと思うよ」 「…………」 「いずれにしてもだ、何があってもお前が自分を責める必要はないんだよ。責任は、みんなおれが持つから、すべてがはっきりするまで何も気にするな。な、余?」  すっかり考えこんでいた風情《ふぜい》の余は、長兄を見て、瞳に信頼の色をこめた。長兄が、精神的に一家の柱であり、家系の背骨であることを、弟たちは知っていたのだ。 「うん、わかった。もう気にしないよ。もし兄さんが竜になったらぼくを乗せてくれる?」 「ああ、おれが竜になったら、余を背中に乗せてやるよ。落っこちるんじゃないぞ。竜に乗るのはむずかしいんだからな」 [#天野版挿絵 ]  せいぜい拙劣《へた》な冗談でなぐさめてやるていどのことしかできない。自分の無力が、始には腹だたしかった。もっと経験、分別、社会的地位などが始にそなわっていれば、弟たちの心理的な負担を軽くするだけでなく、未来への展望をしめしてもやれるだろうに。 「祖父《じい》さんが生きててくれたらなあ。せめて、これまでのこととこれからのこととを教えてくれるだろうに」  続にむかって、つい非建設的なぐち[#「ぐち」に傍点]が出た。祖父が収蔵する二万冊の書物のなかから、始は何か指標となるものを見つけたかったのだが、まだそのことに成功していない。それどころか、哲学堂公園に近いわが家に帰ることすら、もはや容易ではないように思われた。人なみの平穏な生活。それは竜堂兄弟にはぜいたくな望みなのだろうか。兄の珍しいぐちを聞いて、続は何もいわず、余の肩に手をかけたまま黙っていた。言葉ではどうにもならないことだった。茉理もただ始を見つめている。  やがて始は、額に落ちかかる前髪をかきあげ、むしむしする熱帯夜の空に視線を投げあげた。  おれたちに何を望んでいる? 玉皇大帝だってエホバだってアラーだってかまわない。何を望んでいるのか教えてくれ。ほしがったわけでもない力を与えられて、その力のために追いまわされ、憎まれ。敵視されて、そしてそのゴールには何が待っているのだろうか。  始は頭を振って、思考の迷路から脱出しようとした。大きく息を吐き出す。  よろしい。そもそも生まれてきたのは、おれたちの意思ではない。だが、生まれたからには生きる意欲も権利もある。人類を敵にまわし、文明を破壊しなくては生きていかれないなら、そうしてやる。四人姉妹《フォー・シスターズ》とやらが、人類の代表者づらして服従を要求してくるなら、そんなものは蹴とばしてやるだけのことだ。  人の動く気配がした。堤防にすわりこんでいた水池二尉が立ちあがり、始にむかって歩みよってきたのだ。 「さて、戦車がなくなったら、おれはもう用ずみだろ。おれもずいぶんとタフなつもりだが、あんたたちにはおよばない。足手まといになる気もないし、ここでいったん別れようや」  水池は、夜目にも、奇妙にさっぱりした表情だった。体内に蓄積されていた謀叛気《むほんぎ》が排出されて、気分が落ちついていた。躁《そう》状態が去ったというところだが、落ちこんでなどいないのは確かだった。  立ちあがった始は、思わず、ていねいな口調で問い返していた。 「しかし、これからどうするんです。もう自衛隊にはもどれないでしょう」 「人生いたるところ青山《せいざん》あり」  古くさい表現を使って、水池はにやりとしてみせた。河面を見やって、アイアン・ドラゴンに敬礼する。わりにまじめな表情になっていた。 「いや、じつに楽しかった。おれは安定した国家公務員の身分をすてて、これからは官憲に追いまわされるだろうが、縁があったらまた会おう」  始はうなずき、続にいって水池の銃を彼に返させた。それから、ごく自然に握手を求めた。水池は、差し出された手をにぎり、それを離すと、茉理にウインクした。そして踵《きびす》を返すと、江戸川の岸を、下流にむかってぶらぶらと歩き去った。 [#改ページ] 第七章 おさわがせにもほどがある       ㈵  この長い破壊的な夜に、警視庁の虹川《にじかわ》理事官は、自分の交遊関係を再確認することになったようであった。  赤坂九丁目の、マリガン国際財団東京赤坂分室が正体不明のテロリストに襲われ、その包囲に虹川も駆り出されたが、駆り出されただけで何ら機会も権限も与えられず、単なる員数あわせであった。命令系統も横の連絡も、すっかり箍《たが》がゆるんでいるようだ。  所在なく立っていると、高校生時代のアルバイト仲間に出会った。何と自衛官になっていたのにはおどろかされた。虹川よりよほどアナーキーで反体制的な男だったのに、自衛官とは。暇なのでつい話しこんでしまったら、あまり自衛官と仲よくするな、と、警備部のお偉方《えらがた》からいやみをいわれてしまった。形だけ恐縮して、あいかわらずやることもなく立っていると、アメリカ軍のヘリが到着して、警察を一歩も分室内に入れず、現場の処理をはじめた。警察は敷地外でマスコミややじ馬を追いはらうだけ である。ばかばかしさもきわまって、コーヒーを飲むために二四時間営業のレストランに足を向けた虹川は、誰かが小走りに近づいてくるのに気づいた。片手をあげて笑いかけたのは、国民新聞社に勤務する、かつての旧友、蜃海《しんかい》であった。  ふたりは並んでレストランにはいり、奥まった席にすわった。彼らは、共和学院高等科時代の同級生で、先日の新宿新都心炎上事件などにからんで、竜堂家に興味をいだいている。 「おれは高等科時代、アルバイトをしてたんだが、そのときの仲間が自衛隊にはいっててな」 「その男がどうした?」 「戦車ジャックをやった奴は、そいつなんだ」  虹川の言葉に、蜃海は、二九歳という実年齢より老《ふ》けた顔を奇妙にゆがめた。つかれたような表情のウェイターが、やや乱暴にコーヒーのカップを置いていった。 「しかもな、そいつといっしょに戦車に乗っていたのが、どうもあの顔は竜堂始じゃないかと思う」 「ほんとか、おい!?」 「まあ、おれの誤認ということもありうるが、まずたしかだ。どうだ、書くか?」  虹川の問いに、蜃海は、わざとらしく肩をすぼめてみせた。 「書けんな。第一戦車ジャックなんてなかったことになってる。公式にはな」 「政府とマスコミ界で話がついたのか」 「雲の上でな」 「社会主義国じゃあるまいに、わが国のマスコミはまったく政府に従順なんだから。例の反《アンチ》ドラゴン・キャンペーンもちっとばかり異常だぜ」 「じつはそのことだがな」  ためらいがちに、蜃海は、口を開いた。国民新聞社に匿名の電話があって、明らかなつくり声で、彼らの母校の創立者である竜堂司の孫、竜堂始たち兄弟に関することを密告してきたという。かなりばかばかしい話だが、竜堂兄弟のようすは普通とは思えず、高い塔からとびおりて平気でいることを目撃したというのである。 「ふむ……やっぱりあの兄弟には何かあるってことか」 「それも大いにな」 「しかし匿名の電話なんて信じられるのか」 「品性が下劣なのは確かだが、まるきり嘘でもないらしい。スバイの過激派のというのは、あほらしいかぎりだがな」  二、三話したあと、また水池という自衛官の話にもどった。そいつは国外逃亡でもするつもりか、という蜃海の問いを受けて、虹川は苦笑した。 「いや、そいつはこれから指名手配《おたずねもの》ってことになるだろう。すると十中八、九、おれの家に居候《いそうらう》するに、決まってる」  虹川は独身だが、両親から相続した家が埼玉県草加市にある。小さな家だが、ひとりで住むには充分すぎる広さだ。かつてアルバイト帰りに、立ち寄ったことが、水池はあるのだった。 「ま、今夜あってしまったのが不運といえば不運だな」 「お前さん、現役の警察官のくせに、おたずねものをかくまうのか?」 「頼ってきた友人を売るほど、おれは落ちぶれちゃいないよ。友人、というのもちょっと抵抗があるが、ま、暴力団員をかくまう警察官なんて、関西じゃ珍しくもないことだしな」  かなり危険な台詞《せりふ》を、虹川は口にした。じつのところ、自分でも、何でそんな事態を想定し、しかも受容しようとしているのか、虹川にはよくわからないのである。何者かにあやつられているような気さえしていると、蜃海が身を乗り出した。 「虹川さんよ、そのおたずねものがやってきたら、ひきあわせてくれないか」 「おいおい、独占インタビューでもする気か、それこそお前さんも犯人|隠匿《いんとく》の共犯だぞ」 「インタビューはするが、記事にはせんよ。その男が竜堂兄弟といっしょにいたというなら、彼らのことを尋《き》きたい」 「ふん……」 「どうもな、関係ないよ、ですませることもできんようだ。いつかいったろ、おれたちの知らんところで何かが動いているってな。まあ動くのはかまわんとして、知らんところで、というのが気にくわんのさ」 「それこそ知らんぞ、どんなことになっても」  苦笑が、承諾の証《あかし》だった。何とはなし話がとぎれると、隣席の若いカップルの高い話声が耳に飛びこんできた。ヨーロッパに行ったけどさ、だめよ、古くさくて汚れてて、みんな要預が悪くて、日本語もへただし、なまけ者だし、車の型だって古いし、街も貧乏くさいし、夜には店が閉じちゃう、日本のほうが綺麗で便利よ、日本が一番ね……。  このごろああいう手合《てあい》が妙に増えてるな、と、蜃海は思った。外国を日本とくらべて、劣っているとか遅れているとか一方的に決めつける手合が。その逆もけっしてよいこととは思わないが、こういう風潮が出てきたのはいつのころからだろう。  一九八八年には、すでに、そういった風潮を象徴する事件が、たてつづけにおこっている。  マレーシアでは、視察旅行とやらで訪問した東京都議会議員が、酔っぱらってイスラム教寺院のなかで立小便をした。  イタリア、正確にはバチカン市国でだが、サンピエトロ大聖堂で日本人学生が騒ぎをおこした。宗教施設であるから、厳粛かつ静かであるべき場所だ。だが、日本人学生は大声でわめきながら走りまわり、ふざけあい、ストロボをたいて写真をとりまくる。たまりかねて、聖職者が注意したところ、「てめえ、うるせえ、バカヤロー、何をしようとおれの勝手だ」  と、あらんかぎりの暴言を吐き、なぐりかかるそぶりまで見せた。  日本語は理解できなくとも、その粗暴さ非礼さは、表情や口調や動作ではっきりとわかる。あまりのことに耐えかねたサンピエトロ大聖堂がわでは、一時期、日本人観光客を締《し》め出してしまった。  イスラム教徒やキリスト教徒ではないからその寺院で非礼をはたらいてよい、ということにはならない。イスラム教やキリスト教に対して批判があるのなら、ちゃんと論議すればよいし、行くのがいやなら行かねばよいのだ。  たとえば、日本の伊勢神宮あたりで、酔っぱらったマレーシア人が立小便をしたら、日本人はどう思うか。奈良の法隆寺などで、イタリア人の学生が大声をあげてふざけまわり、注意する日本人に暴言を吐いたら、日本人はどう感じるか。そのていどの想像力さえ、日本人は失いつつあるのだろうか。  日本人で、ボランティア活動によって他国の人々に奉仕している人は数多くいる。ミクロネシアの小島に自分たちの手で学校を建てたり、ネパールの山奥に電気を引くため努力したり、アフリカの病院で伝染病の根絶につくしたり、そうやって現地の人に感謝されている日本人はたくさんいるのだ。だが、他国の人もボランティア活動をやっている。一方、ローマ教皇のおひざもとであるサンピエトロ大聖堂で、非礼のかぎりをつくして立ち入り禁止をくらったのは、世界中で日本人だけである。残念なことに、善行より愚行のほうが、より強い印象を残すものなのだ。そして一方では、際限のない軍事大国化がある。一九八八年、アメリカの下院において、国務省高官が「日本の軍事予算は、フランス、イギリス、西ドイツを一挙に抜き去って世界第三位となった」と証言した。同年七月のワシントン・ポスト紙は、「戦争放棄をうたった憲法を無視して、日本は世界最大級の軍事大国のひとつとなった」と論評した。インドネシアの大統領は、日本の防衛庁長官に、「軍事力で勝つような時代ではない」と忠告した。かつてアメリカ国務長官をつとめたキッシンジャーは、「米ソ両国はおたがいだけを見ているが、日本というあらたな軍事大国が出現しつつあることを忘れぬほうがよい」と述べた。世界じゅうの国々が警戒を強めつつある。知らないのは当の日本人だけである。 「富によって精神的な豊かさを増す民族もいるが、残念ながら日本人はそうじゃないらしい。この成金《なりきん》民族が、どこまで増長《ぞうちょう》し、どこへ流れていくのか、いっそ見ものだな」  蜃海はそう思う。彼の述懐《じゅっかい》を聞いて、虹川が、にやりと笑った。 「あまり大きな声でそんなこというなよ。いまの社会を否定するけしからん奴だといわれるぞ」 「おれは否定しているんじゃない。批判しているんだ」 「ところが世のなかには、否定と批判の区別もつかない奴らがいるのさ。世界一すぐれた日本の社会を否定する者は日本から出ていけ、なんてことを平気で口にする奴らがな。そしてそういう奴らが、でかいつらでのさばってるのが現実だ」 「いやな時代だな」 「まったくだ、ろくでもない時代だぜ」  そして、ろくでもない結論だった。ふたりは溜息をつき、疲労を感じながら、さめたコーヒーを飲みほした。       ㈼  午前一時三〇分。東京東方郊外の関東平野は、眠りの旅程のなかにある。一部の深夜族と呼ばれる人たちが、TVの深夜ニュースを見ているだけだ。いっこうに赤坂や霞が関での事件の全体像が明らかにされないので、彼らは歯がゆくてならなかったが、じつは自分たち自身のすぐ近くに、事件が忍びよっていたのである。  短時間にいくつも重大で非常識な事件がおこった。しかもその現場が移動した。政府は公表をこばみ、マスコミも自分の任をはたさなかった。警察と自衛隊は反目《はんもく》しあって、協力どころか必要な連絡さえおこたった。アメリカ軍まで独自の行動をとって、日本がわの対策や捜査を無視した。時刻からして深夜だった。通信および交通体系も、自衛隊の治安出動下で、いつもどおり機能しなかった。首相は決断を欠いた。無数の悪条件がかさなり、この時刻、事件の全体像を把握している者は、おそらく地上にいなかったのではないだろうか。  当事者たる竜堂兄弟すら、全体像の把握など望むべくもなかった。  まず、終が筑波の大亜製薬研究所から逃げ出したことを、始たちは知らなかった。終のほうでは、兄弟たちが戦車を失って徒歩になったことを知らなかった。ここで両者は完全に行きちがいになるところであった。  ことに、終のほうは、兄弟たちが戦車を乗っとり、東京を火の海にしていると思いこんでいたので、そちらのほうへ進めば、再会がはたせると考えた。で、高いところから見たほうがわかりやすかろう、とばかり、ヘリからワイヤーでぶらさがり、熱帯夜の空を飛んでいる。  彼の兄弟たちも、戦車を棄《す》てる気はなかった。まさか水陸両用戦車が浸水するとは思わないから、まったくしかたなしに、アイアン・ドラゴン号を棄てたのである。そして地味に夜道を歩きながら、筑波を目ざしている。途中、自動車を拝借《はいしゃく》する機会もあったのだが、何となく個人の財産権を侵害する気になれなかった。戦車やパトカーなら遠慮なしに借りてしまうのだが、妙なところで公徳心が出てくるのだ。相手が敵対行為に出てくるなら別だが。たとえば終がゼンゴクレンに対したように、である。  一〇分ほど彼らは深夜のハイキングをおこなった。最年少の余がいっこうに疲れていないのは、竜堂家の一員としては当然だったが、茉理もじつによくついてくる。彼女をいたわりながら、始は歩いていったが、そのうち続と話しはじめると、だんだん身がはいってきて、話題が目前の事態から離れはじめた。それどころか、現代からも離れて過去の歴史へむかっている。 「アッシリア滅び、バビロン減び、ペルシア減び、そしていまカルタゴも滅びさりぬ。つぎに滅ぶるは、これローマか……」 「小スキピオですね」  紀元前一四六年、三〇〇年にわたるローマ帝国とカルタゴの抗争に結着がついた。劫火《ごうか》と流血のなかに炎上するカルタゴの市街を、馬上からながめやって、小スキピオの名で知られるローマ軍の司令官は涙を流した。敵国の滅亡を目前にして、いつかかならず自分の祖国もほろびるであろうことを予見したのである。小スキピオの死後、時代をへてローマは滅びた。その後、いくつの強国が滅び、あるいは没落したことだろう。人間がかならず死ぬように、国もかならず没落する。日本だけが例外であるとは、始には思えない。 「でも、大半の日本人は、日本の繁栄が永遠につづくと信じてますよ」 「信じるのは彼らの勝手さ」 「ええ、信じるのはね。問題は、他人にむりやりそれを信じさせようとする輩《やから》がいることです」  このふたりは、ほんとうに高踏《こうとう》的な話が好きなのね、と、茉理は苦笑する思いである。とくに長兄のほうが、文明史的な視線の射程を持っていて、現在を、長大な歴史のなかの一瞬でしかないと思っているから、そうなってしまうのであろう。 「ね、兄さん、落語のネタに、ひとつ目国の話があるでしよう」 「ああ、知ってる。かなりのブラック・ユーモアだな、あれは」  ある男が、辺境にあるひとつ目人の国に出かけていく。ひとつ目の人間をつかまえてつれ帰り、見世《みせ》物にしてやろうと計画したのだ。ところが反対に、自分のほうが彼らにつかまってしまい、「珍しいふたつ目の人間だ」というので見世物になってしまう。長いこと見世物になっているうち、男は、ふたつ目の自分こそ異常なのではないかと思いはじめ、自分の片目をつぶしてしまうのだ。多数が正常で少数が異常、という決めつけかたの愚かさを笑う話である。現代の日本だって、このひとつ目め国に似ているのではないか。  始は、何年か前に、空《そら》おそろしい話を聞いたことがあった。  それは表面的には笑ってすませられるような、たわいない話である。京都でおこった事件だ。ある住宅地に、暴力団のボスが転居《ひっこし》してきた。暴力団の抗争などに巻きこまれるのではないか、と、近所の人たちは恐れていた。ところが、その近くにある中学生たちが、グループで、このボス宅にいたずらをはじめたのである。呼び鈴《りん》を押して、ボスや子分たちが出てくると、わっとはやしたてて逃げ出す。毎日、しつこくそれをくりかえした。留守のときなど、家のなかにあがりこみ、置いてあったファミコンをこわして逃げた。ボスの家にファミコンがあるというのは、何となく笑える話だが、これは家宅侵入と器物破損で、りっぱな犯罪である。  ボスは本気で怒り、ついにあるとき、待ち伏せしてこの中学生グループを一網打尽にし、ひとりひとりなぐりつけた。中学生のひとりが、鼓膜《こまく》を破られたので、ことが明るみに出て、ボスは傷害罪で逮捕された。「あまりにひどいいたずらなので、こらしめてやろうと思った」そうである。  さて、問題はこのあとである。事件を知った中学校の教師たちは、当の中学生たちに事情をたずねたが、そのときこう質問せざるをえなかった。 「暴力団を相手にそんなことをして、もしつかまったらどんな目にあうか、すこしは想像しなかったのか、君たちは。こわいからやめよう、とは思わなかったのか」  すると中学生たちは答えた。 「つかまったらどうなるかなんて,まったく想像もしなかった。怒って追いかけてくるのがおもしろいからやっただけだ」  ……このニュースを知ったとき、始は最初、苦笑し、つぎに心からぞっとした。この中学生たちは、ただおもしろいからというので、いたずらをくりかえし、結果を想像もしなかったのだ。これを続にいわせると、「もしこうしたらどうなるか」という想像力は、人間にあって、それ以外の動物にないものである。想像力のない人間は、その精神作用において動物にひとしい。この中学生たちは、こと想像力の欠落《けつらく》という点において動物なみに退化していたといわざるをえない、ということになる。  日本は豊かな国であり、先進国であるという。たぶんそのとおりであろう。これほど精神的に荒廃したあげく、物質的にも貧しいというのではたまらない。かなり辛辣《しんらつ》に、続などはそう考えるのである。叔父に対してもそうであるが、続は始よりさらに人間も国も突き放して考える性質《たち》だった。ものを考えないような人間は、権力者にどんな目にあわされてもしかたないし、ものを考えない人間を大量生産するような国は滅びてもしかたない、と思っているのである。       ㈽  一方、せっかく戦車捕獲のために網を張っていた自衛隊だったが、いっこうに戦車がやってこないので予定が狂ってしまった。  戦車はまだ都内にひそんでいるのか。その空おそろしい可能性に思いあたった自衛隊は、あわてて各処に連絡し、偵察をかさねた末、ご自慢の最新式戦車が江戸川で沈んでしまったことを探りあてたのであった。自衛隊は、はなはだ狼狽し、まず戦車を人知れず引きあげることに力を入れることになった。  夏の夜は短い。あと四時間もすれば夜は明けはなたれ、人々の日常生活がはじまる。一両何十億円もする戦車が、石で穴があくような欠陥品だと一般国民にわかったら、非常にまずいのであった。幹部たちは非難にさらされるし、来年度からの予算がとりにくくなるではないか。  こうして、自衛隊があわてて動き出したころ、竜堂家と鳥羽家の四人組は、五人めの構成員との遭遇《そらぐう》に成功したのだった。ただ、理想的な偶然というわけにはいかなかった。二次元世界でなら完全に再会できていただろうが、あいにくと三次元世界だったので、ヘリにぶらさがっていた終は、兄弟たちのはるか頭上を通過してしまうことになったのだ。 「兄貴! 余! 茉理ちゃあん!」  大声でどなったが、最初、その呼びかけは地上にとどかなかった。不意に余が足をとめ、小首をかしげ、ついで夜空を見あげたので、三人の年長者も歩くのをやめて、末っ子のまわりに集まった。 「どうしたの、余君」  茉理が末っ子の顔をのぞきこんだ。 「うん、いまね、終兄さんの声が聴こえてきたような気がして……」  国道上の四人は、空を見あげた。ヘリの爆音と、兄弟たちを呼ぶ声が降ってきた。竜堂兄弟にとって、へリとは悪役専用の乗物である。おどろいて地上から呼びかけると、にわかに爆音も終の声も遠ざかり、やや間をおいて、何かが彼らの足下に落ちてきた。無用のものらしい小型カセットに、細長く折られた紙が置いてあった。こわれたカセットをとりあげ、続がため息をもらした。 「……行ってしまいましたね」 「考えが安直《あんちょく》なんだ、あいつは!」  始は地面を踏み鳴らした。あいつとは、三男坊のことである。 「敵が誰だかわからんが、甘く見やがって。ヘリから飛びおりるつもりで、飛びおりられなくなったにちがいない。そうそうつごうよく、ことが運ぶものか」  終が聞いたら赤面したにちがいない。長兄の推測は、完全に的を射ていたのである。ワイヤーを離して夜空にダイビングしようとしたとき、ヘリが急上昇し、さすがに一瞬ためらったとき、特殊樹脂のコードが四本、ワイヤーを巻くようにすべりおりてきて、彼の両手首に巻きついたのであった。  そして、地上では、カセットからほどかれた手紙が、四人の前でひろげられていた。 「西海白竜王を返してほしければ、横田基地へいらっしやい。三海竜王へ」  ただそれだけの文が、おそらくハンディ・ワープロで打たれてあった。「白竜王」という呼びかたで、始としては、文書の主が、容易ならざる敵手であることをさとらざるをえなかった。始が東海青竜王、続が南海紅竜王、終が西海白竜王、余が北海黒竜王、あわせて四海竜王であるという秘密を、この相手は知っているのだ。秘密自体、完全に解明されているわけではないにせよ。  一方、ヘリの機内では、蜂谷がレディLにむかって興味深げに聞いかけていた。 「彼らはあなたの招待に応じますかな、レディL」 「来るわ、かならず」 「世界最強のアメリカ軍基地にですか」 「世界最強……?」  薄く笑ったレディLは、目の前にいる硬直した権威主義者が不安を感じぬよう、言いそえた。 「世の中には無謀な若者たちがいつもいるものでしょう。彼らの無謀さは、わたしたちの手中にあるあの少年を見てもおわかりのはずよ、ミスター・ハチヤ」 「たしかに……」 「それに来ないなら来ないでけっこう、すくなくとも。あの少年ひとりは確実に手中に残ることになるでしょう」 「それで満足はなさらないので?」  蜂谷は、問うというより探りをいれたのだった。レディLは意味ありげに唇の線を曲げた。 「そう、満足はしないわ。わたしではなく、四人姉妹《フォー・シスターズ》の至高者たちがね。リュードー・ブラザーズを全員とらえるためなら、横田基地ひとつぐらい失っても惜しくないそうよ」 「……何と!?」  目と口で三つの|O《オー》を蜂谷は形づくり、気をとりなおすように、小さなせきをした。 「ミスター・ハチヤ、あなたも四人姉妹の驥尾につくつもりなら、わきまえておかれるべきね。横田基地など四人姉妹の至高者たちにとって、単なる道具にすぎないということを……」  静かな豪語を聞いて、蜂谷は姿勢まであらためたようである。 「だから、その力は味方を遇するにも、敵を破滅させるにも、充分すぎるほどだということ。ミスター・ハチヤ、あなたの忠誠と尽力《じんりょく》は、かならず厚く酬《むく》われるでしょう」 「は……」 「むろん、その反対に、四人姉妹《フォー・シスターズ》の信頼に背《そむ》いたときはどうなるか、歴史を勉強なされば、おわかりのはず。あなたは賢明で、人生を楽しむ資格がおありだと、わたしは信じます。信じさせていただけるわね、ミスター・ハチヤ」  睡をのんでうなずく蜂谷に、レデイLは麻薬のような笑みを送った。 「さて、決断は彼らにまかせて、ここで地上のできごとを見物してみるのも一興《いっきょう》でしょうね。そう長くも楽しんではいられないけど」  ヘリは夜空に空中停止《ホバリング》して、地上の闇を見おろした。暗視装置《ノクトビジョン》に、無彩色の光景が小さく映し出される。文字どおり高みの見物と、レディLはしゃれこんだわけだが、ほんの一秒半ほど後に名場面に出会ったようであった。 「これはこれは、珍しい顔あわせが実現しそうだわ。ミスター・ハチヤ、ごらんなさい」  国道上に、竜堂兄弟の姿が映っているのだが、彼らの周囲を、五、六台の黒い自動車が包囲したところだった。わずかに眉をひそめて暗視装置をのぞきこんだ蜂谷が、「ほう、ほう、これは」と冷笑まじりに満足のつぶやきを発した。黒い自動車の一台からあらわれた人物は、つい先ほど別れたばかりの、ドクター田母沢であったからだ。 「運命とやらも、なかなか小細工を弄《ろう》しますな」  他人ごとのように評したが、じつはそれほど偶然とはいえない。田母沢にしてみれば、懸命《けんめい》にヘリを追ってきたのだろうし、そうなれば、へリのほぼ直下にいる竜堂兄弟に出会うのは、いわば二次元的必然というものであった。この場合、田母沢という敵の存在を知らない竜堂兄弟にとって、もっとも状況は意地わるく展開したのである。 「そ、そうじゃ、お前でもいい。お前でもいいんじゃ」  田母沢は自動車からおりて、竜堂兄弟の前に立った。その目がぎらついていた。竜堂家の兄弟、それも年少組の存在を、彼は一方的に知っている。たとえ三男坊を逃がしても、末っ子を手に入れることができれば、彼の欲望は満足されるのである。  竜堂兄弟の認識は、マリガン財団とレディLに直結していたので、田母沢などの存在を意識するはずもなかった。ただ、初対面であるにもかかわらず、田母沢の全身から発散される毒気には、敏感に反応した。余は飛びのいて、長兄と次兄に左右をはさまれる位置に立った。生理的嫌悪感が勇気を上まわったのだ。  始と続は、余と茉理を背後にかばって一歩すすみ出た。友好の二字が、このさい無縁な相手であることを、承知せざるをえなかったのだ。問答無用の気配が濃厚であった。  田母沢は二時間たらず前に竜堂終が五階の窓からダイビングした姿を見て、この兄弟が尋常ならぬパワーの持主であることを確認した。それだけに、彼が竜堂兄弟に対していだく欲望は、多重的なものとなった。生体解剖への欲望がおとろえぬと同時に、そのパワーの秘密をぜがひでも知らねばならぬ、と思った。  それは、この六月に奇径な死をとげた船津《ふなづ》忠厳《ただよし》老人も欲していたことであった。田母沢は脂《あぶら》ぎった唇を脂ぎった舌でなめまわし、それでもひとまずは交渉してみた。 「おとなしくその孺子《こぞう》をわしによこさんか。そうすれば他の者は見逃してやってもよいぞ」  始と続は視線を見あわせた。こいつはレディLの手下か、と考えたのは、むりからぬことである。そのことを始が口にすると、田母沢の蛙面がひきつった。 「あんな女の手下じゃと! 青二才め、無礼な口をたたくと赦《ゆる》さんぞ」  この反応で、始はとっさにわけがわからなくなってしまったのだが、ちょうどそのとき、 「誰だ、そこで何をしているっ」  誰何《すいか》の声がひびいた。国道わきの丈《たけ》高い叢《くさむら》を分けて、自動小銃をかまえた自衛官が、アスファルトの路上に躍り出た。四人いる。  始と続が地を蹴った。  自衛官も動転している。自動小銃をかまえてはいるが、引金をひいてよいものかどうか、とっさに判断がつかない。勝敗は一瞬に決して、四人の自衛官は、宙をとび、出てきたばかりの叢に放りこまれてしまった。四丁の自動小銃は、始と続にもぎとられ、さらに他のふたりに手渡されて、あっという間に、竜堂・鳥羽連合軍は完全武装してしまっている。  軽快な発射音がひびいて、田母沢と一四人の部下の足もとに着弾した。あわてて男どもは着弾をさけ、奇怪な身ぶりでタップダンスを踊った。 「動くと撃つわよ!」  茉理が叫んだのは発射した後であった。始と続は顔を見あわせて苦笑し、余は感歎して「すごいや、茉理ちゃん」とほめたたえた。 「妙なことになったな」 「いまさらのことじゃありませんよ。もう、糸をほぐしている暇はありませんね。とにかくヘリを追いましょう」 「ひと晩のうちに、こんなに色々なことがおこったんじゃ、日記に書くのがたいへんだね」 「あら、余君、日記を書いてるの?」 「書いてるとしたら、だよ」  四人四様に話しながら、竜堂・鳥羽連合軍は、国道を今度は東から西へ走っている。田母沢の部下たちは拳銃やスタンガンを持っていたが、自動小銃の威嚇《いかく》でそれを路上にまとめて棄てさせた。余がそれらを一丁ずつ深夜の叢のなかに投げ棄てた。軽く投げても一○○メートルは飛んだし、探し出すのは不可能であろう。自動車のタイヤも一台ごとに撃ちぬいて、追跡手段を奪う。  それから四人は走り出した。素手でなお追おうとした者がいたが、振りむいた続が、容赦なくその脚を撃ちぬいた。人道主義者としてふるまう状況でも気分でもなかったからである。全員の脚を撃ちぬかなかっただけ、寛大というものであった。 「茉理ちゃん、疲れたらいってくれよ」  始がいったのは、いぎとなれば彼女を背おうつもりだったからである。むろんそれは茉理にもわかっていて、始さんにおぶわれたらすてきだな、とは思ったが、口に出してはこう答えた。 「大丈夫よ。まだまだ半人前だったのね、なんて母に笑われるのはごめんだわ」  彼らの頭上一〇〇メートルの空間でも、このとき状況が変わっていた。高処《たかみ》の見物を、レディLはつづけていられなくなったのだ。 「レ、レディL……!」  サブ・パイロットの声がうわずった。彼の指が下方をさししめしたので、レディLは暗視装置《ノクトビジョン》の方向をすこし変え、そして沈着でふてぶてしいはずの彼女が息をのんだ。  下へ伸びたワイヤーロープをよじ登ってくる人影を認めたのだ。むろん、それは竜堂終だった。彼は発想を転換したのだ。おりるのがだめなら、あがってやろう、というわけであった。  レディLは戦慄した。もし竜堂終が、西海白竜王が、ワイヤーを上りきってヘリにはいりこんだら、瞬時でヘリは少年に制圧されてしまう。拳銃ぐらいでこの少年に対抗することは不可能だし、うかつに発砲すれば、ヘリ自体の安全がたもてない。墜落炎上してしまうであろう。  墜落炎上! つい数日前の記憶がよみがえり、レデイLは無意識のうちにうめいた。ぎょっとしたように、蜂谷がレディLを見つめる。その視線に気づいて、レディLは迅速に精神的再建を果たした。おどろくべき意思力であった。彼女はパイロットに指示を下した。  竜堂始たちが夜空にすかし見たのは、空中で異様な水平回転をはじめたヘリの姿だった。ヘリが方向を変えると、ワイヤーロープがまわり、終の身体もぐるぐる回転する。あれでは終が目をまわしてしまう。ヘリ自体より、ロープの下端のほうが回転が大きく激しくなるのは当然である。 「何かないか、へリに投げつけて撃ち墜とせ」  むちゃくちゃな命令であるようだが、このとき始は、レディLと見解を同じくしていた。ヘリが墜落しても、終の生命に危険はない。とびおりて助かるだろう。いや、危険があるとすれば、未解明のメカニズムによって、終は竜身に変じることになろう。そのときはそのときで、いずれにしても終は死にはしない。それにヘリが落ちるのも叢《くさむら》ならよけいな被害を与えることはない。それらのことを考えたのだ。まあ、そうではあっても、常識はずれの命令であるにはちがいないが、幸か不幸か、この命令は芙行されなかった。ヘリはさらに夜の奥へと遠ざかり、竜堂兄弟の異常な強肩《ライフル・アーム》をもってしても、何かをぶつけるのは不可能になった。  さすがに終も、強烈な回転で目をまわしてしまい、せっかく上った分をずり落ちてしまった。ヘリは回転をやめると、スピードをあげ、まっすぐ西方へ飛びはじめた。ようやく頭を振って、終が平衡感覚をとりもどしたとき、すでにヘリは東京都内上空にあった。  まあいい。終は考えなおした。飛行機とちがって、ヘリの航続距離は短い。そのうちかならずどこかに着くので、そのときこそ、まとめてお返しをしてやろう。  それにしても、東京上空を、ヘリに吊りさげられて往復した者は、おれがはじめてじゃないかな。足下を通過するメガロポリス・トーキョーの、灯火の粒で織りあげたような夜景を見おろしながら、終はそんなことを考えた。失望も一時のことで、完全に自分らしさを回復している。竜堂家の者は、どんな状況にあっても、それなりに楽しみを持つべきなのだ。  だが、地上に残された竜堂・鳥羽連合軍は、終ほどいい気になっていられなかった。後方から、田母沢一行が追ってきたのだ。無事なタイヤを一台に集め、黒い自動車を走らせてきたのである。健歩の四人をはね飛ばそうとして、猛スピードで突っこんできた。始は茉理を、続は余を、それぞれ抱きかかえて横に飛んだ。目的を達しなかった黒い自動車は、Uターンしかけて、数条のライトに照らし出された。自衛隊のジープが三台、混乱の場にあらわれたのである。  こうなると田母沢にも、生体解剖への欲望より自己保存本能のほうが優先した。口ぎたなくののしりつつも、部下どもに合図し、自分たちの自動車をターンさせて逃げもどる。自衛隊全体を意のままに動かすには、彼の権力はやや不足していたのだ。 「猫の目のように」とはよくいったもので、連続する状況の激変は、このときピークに達した観があった。  当夜、出動し負傷した自衛官I氏が、五年たって除隊後に証言したところによると、「いやもう、ライトに石か何かを投げつけられて真暗《まっくら》になりよるし、上官《うえ》はとにかく音をたてるな、静かに行動して住民に知られるな、と、むちゃ言いよるし、うろうろしとるうちに、一発なぐられて、わけわからんようになってしもうた。気づいたら仲間はみなのびてしもうて、ジープは消えとる。その夜の敵の正体? そんなもんわかるかいな。上にしてからが、そのときはもう、敵をやっつけるいうより、戦車が欠陥品やいうことを隠すために必死だったんや。翌日になったら、『あれは忘れてしまえ』とわしらをにらみよる。もうあほらしゅうて……」  こうして自衛隊は、一夜のうちに戦車とジープを強奪されるという不名誉な記録を樹立したのである。  もっとも、新記録はさらにつづいて、午前二時四〇分には、江戸川東方○・四キロの地点にとまっていたヘリを、パイロットごと強奪されたのであった。これは全体の作戦指揮をするため、第一師団長が搭乗してきたものだったが、作戦が戦闘ではなく江戸川の不燃ゴミひきあげ作業にかわったため、一時、わずかの警備兵を残して放置されていたところを、ジープを乗りつけた四、五人のグループに乗っとられてしまったのだ。  へリが飛びたつまぎわ、近所に住む老人が、深夜の騒ぎに腹をたて、飼犬をつれて現場に赴《おもむ》き、そこにいる連中をどなりつけた。 「いま何時だと思っとるんだ。まともな人間が起きとる時刻じゃないぞ。まったく、おさわがせにもほどがある!」  この夜、もっとも説得力にとんだ意見は、この一言であったにちがいなかった。返す言葉もなく、ヘリ強奪犯の一行は、へリに乗りこみ、この夜何度変更になったかわからない目的地へと出発したのである。 [#改ページ] 第八章 滑走路       ㈵  在日アメリカ軍横田基地の中枢は、ごく簡単に「作戦室」と呼ばれている。  実態は、軍事機密のべールにつつまれて、民間人にはめったに知られていない。確実なことは、建設費一五億円をアメリカ政府ではなく日本政府が出したこと、ホワイトハウス、国防総省《ペンタゴン》、アメリ力太平洋軍司令部などと通信衛星で直接コンタクトできること、である。  基地の総両積は約七〇〇万平方メートル、二一二万坪。三〇〇〇メートルの滑走路、整備用格納庫など航空基地として必要な全施設をそなえている。一九七二年、日本政府が一〇〇〇億円以上の経費を負担し、基地の機能を大幅に強化した。それまでは単なる航空基地であったが、その後は極東全域におけるアメリカ軍の指揮中枢として、重要な位置をしめている。  そして基地内には、「危険度ナンバーワン」の表示がなされた半地下式の弾薬庫がある。これは核弾頭の保管庫を意味する表示であるが、実際には「非核三原則」の制約から、核弾頭は置かれていない。ということになっている。それをそのまま信じるかどうかは、その人の自由である。  在日アメリカ軍司令官ライオネル・マクマホン・ジュニア中将は、この夜はなはだ不機嫌であった。理由は六つあった。第一に、彼ごひいきのカリフォルニア・エンゼルスが新人投手にノーヒット・ノーランをくらったから。第二に、べトナムで受けた背中の古傷が、高温多湿でうずいて不快な痛みを与えていたから。第三に、ベッドにはいった後にたたき起こされたから。第四に、いくらマリガンとはいえ、一私企業の団体に協力を強要されたから。第五に、彼にそれを強要したのが、彼よりずっと年少の女性だったから。そして第六に、彼女の態度が礼儀正しそうにみえて、じつは高姿勢だったからである。  司令官室にレディLを迎えると、マクマホンは葉巻をくゆらしつつ応待した。 「輸送機は手配します。ほんの数日前にも、あなたのためにハワイへの直行便を用意させていただいたが、東奔西走《とうほんせいそう》、おいそがしいことですな」  マクマホン中将の皮肉にも、レディLは動じる色を見せなかった。 「ご配慮、感謝します。ですけど、あえて申しあげれば、閣下にはご関係のないことですわ、マクマホン中将」  自分の娘のような年齢の女にあしらわれて、マクマホンは内心、かっとしたが、行動に出しては、口からもぎとった葉巻を灰皿に押しつけ、ねじまわしただけである。まだ一センチていどしか消費されていない葉巻は、ひしゃげ、つぶれて、本来の用途以外で持主のストレス解消に使われてしまった。中将の険《けん》のある目つきが蜂谷に向けられた。 「こちらの日本人紳士も同行なさるので?」 「ええ、そのつもりです。こちらのミスター・ハチヤには、今後、大いに活動していただかねばなりませんの」  このとき蜂谷が笑ってうなずいたのは、お愛想ではなく、自分にもちゃんと英会話がわかるのだぞ、ということを表現したのである。だがレディLは彼に日本語で話しかけた。 「ミスター・ハチヤ、輸送機が出発するまでの間、ひとつやっていただくことがありますけど、よろしいかしら」 「私にできることでしたら」  つい官僚的な用心深さを蜂谷はしめした。 「もうすぐ竜堂兄弟がこの基地へやってくるでしょう。あなたの知性と弁舌《べんぜつ》をもって、彼らを説得していただきたいの」 「説得、ですか」 「そう、彼らがたとえ消極的にであっても、自分たちの意思でわたしたちに協力するよう、説得していただきたいのです」 「むずかしいご注文ですな」  蜂谷は思案した。官僚時代の人脈や組織力に頼るわけにはいかない。うかうかと引き受けて失敗すれば、役たたずの烙印《らくいん》を押されるであろうことは、レディLの態度を見れば明らかである。だが、拒絶できないことは、それ以上に明らかであった。 「やらせていただきましょう」  そう蜂谷が答えたとき、当直士官が司令官室のドアをノックした。正体不明のヘリが、基地に接近しつつあるという報告であった。  中将が何かいうより早く、レディLの声が飛んだ。 「撃ち墜としてはいけません。基地内への着陸を許可して下さい」  そこまで指図《さしず》されるいわれはない、と思ったが、マクマホン中将は、レディLに、というよりマリガン財団にさからうことはできなかった。グアテマラ政府の軍事顧問だった当時、グアテマラ国防省の高官と組んで武器調達資金七五〇万ドルを着服《ちゃくふく》したことがある。その事実を、彼はマリガン財団に知られていた。グアテマラにもマリガン財団の支部があり、さまざまな工作をおこなっていたのである。この個人的な弱みに加えて、マリガン財団は国防総省《ペンタゴン》の強力なスポンサーであり、公私ともに中将は頤使《いし》に甘んじるしかなかったのだ。  マクマホン中将の指示によって、正体不明のヘリは着陸を許可された。ジャパン・ディフェンス・エアフォースのヘリは、かなりびくびくもので、基地管制塔の指示どおり、基地メインゲートから一〇〇メートルほどはいった幅の広い道路上に着陸した。  オートライフルをかまえた兵士たちが、へリの周囲に集まった。白人、黒人、アジア系、メキシコ系、何種類もの色の肌が、招かれざる客を包囲した。  後部座席で、アメリカ兵にまさるともおとらない長身の青年が、一見のんびりと両手をあげて伸びをした。 「ご苦労さま。ボーナスを出してあげられないのが残念だけど、まあどうか無事に家まで帰ってください」  そう挨拶された特別国家公務員氏は、なけなしの勇気と自尊心をふるいおこして、ヘリ・ジャッカーにくってかかった。 「お、お前らはいったい何者だ。正体はいったい何だ!?」 「それを知りたいとおれたちも思っている」  きまじめに始は答え、パイロットの襟首をつかんでひょいと持ちあげると、ヘリの外に放り出した。パイロットは絶叫したが、コンクリートに尻もちをついただけで、生命に別条はなかった。 「さて、レディLとやらに会わせてもらおうか」  どこまでも日本語で押しとおすつもりで、始は、周囲に築まった異国の兵隊さんをながめわたした。       ㈼  軍服姿の男たちが、あわただしく基地内を右往左往している。  ヘリに乗っていたのは、パイロットの他に竜堂始だけであった。あとの三人——竜堂家の次男坊と末っ子、それに従姉妹《いとこ》と思われる若い女はどこに行ったのか。レディLは推測をめぐらせた。おそらく始が正面から乗りこむ間に、他の三人は常人ならとうてい不可能な方法で基地内に侵入するつもりだろう。あるいは、末っ子と女は、途中でおろして、これ以上巻きこまないようにしているかもしれない。だが、すくなくとも次男坊は、兄と行動をともにしているはずだった。  たしかにそのとおりだった。メインゲートから一キロ半ほど離れた三番ゲートの近くで、パトロール中のひとりの白人兵士が何者かに襲われたのである。何か影が動いたかと思うと、同行の軍用犬は血へどを吐いて地に這っていた。オートライフルを奪われ、それをつきつけられた兵士は、ゆっくりした英語で命じられた。 「軍服を貸していただきたいんです。こころよく協力していただけますね?」  プリーズにサーまでつけて、言葉だけは鄭重《ていちょう》な続だが、秀麗すぎるほどの美貌に、一ミリグラムの好意さえ浮かんではいなかった。言語などよりはっきりと、兵士は相手のおそろしさをさとった。彼は大あわてで服をぬぎはしめた。マリファナも酒も日本の女も、生きていればこそ楽しめるのである。いざ核戦争となれば、大統領や国防長官ら四〇〇〇人だけが、アパラチア山中の巨大核シェルターに逃げこんで助かるようになっているのだ。そんな奴らのために生命を棄てる気は、彼にはなかった。  兵士がシャツとパンツだけの姿になると、続は白い形のいい手を伸ばして、兵士の頸動脈《けいどうみゃく》を押さえた。兵士が気絶してひっくりかえると、叢《くさむら》のなかにひきずりこんで、放置されていたぼろぼろのキャンパスシートをかぶせる。蚊にくわれるぐらいのことは、がまんしてもらおう。  手早く兵士の服を身に着ける。せいぜい一五分もごまかせればいいのだ。多くは望まない。 「それにしてもねえ、他人の服をどうにか着こなす技術がお家芸とは、竜堂家の家風にはちょっと問題がありますね」  そうつぶやきながら、ハンサムすぎる兵隊さんは、オートライフルを肩に、人目につきにくい場所を選んで歩きはじめた。  竜堂始は応接室らしき部屋に通された。インタビューやTV撮影用の部屋かもしれない。明るく陽気な中西部の中流上層《アツパー・ミドル》の家庭、その応接間という演出がちょっと過剰であった。  そこで始を迎えた男が蜂谷だったのだが、始は相手にさっぱり興味を持てなかった。個性にもとぼしく、芸のないお説教をたれ流すような悪役に、誰が興味を持てるというのか。 「……日本は平和で、自由で、そして豊かだ。このようにすばらしい国を築きあげた日本人は、世界一優秀な民族だ。日本人のくせに、君はそう思わないのかね」  あんたがそう思うのは勝手だが、その考えを押しつけられるのはごめんだね。始は言ったが、心の片隅でのことであって、口を開く労すら惜しんだ。 「その表情を見ると、どうも異論がありそうだね。いかんなあ、日本は世界でもっとも繁栄しているすぐれた国だよ。それを批判したり否定したりするのは、共産主義者か非国民だけだよ。そういう悪い人間は、日本には必要ないね。くさったリンゴが一個あると、籠《かご》のなかのリンゴが全部くさってしまうものだ。排除せねばならんだろうね」  典型的な全体主義者の発想だった。ただのひとりも、ことなった考えの持主が存在することを許さないというわけだ。 「日本だけではない、ここまで成熟した物質文明に異をとなえるなんて、人類の敵といわれてもしかたあるまい。心を入れかえてだな……」 「人類の敵といわれて、おれがびびるとでも思ったか? あいにくだったな」  はじめて口を開いた始の声は、ずしりとした圧迫感を持っていて、蜂谷はおもわず鼻白んだ。 「人類がおれたち兄弟の敵にまわって、しかもあんたのように薄ぎたない卑怯者が人類の指導者|面《づら》しているとあっては、人類に対して、おれたちが友好的でいなきゃならない理由は、何ひとつないな」  始の眼光が、さらに蜂谷をひるませた。 「滅ぼすまでだ。どうやらそれが地球の他の生物にとってもよさそうだな。手はじめに、ろくでもない政治屋に喰いものにされている日本から減ぼしてやってもいいんだぜ。隗《かい》よりはじめよ、ともいうしな」  始の毒舌《どくぜつ》を、蜂谷は聞きずてにできなかったらしい。大げさに、おそろしげな表情をつくってみせた。 「き、君はどうやら単に共産主義者というだけでなく、愛国心ゼロの無政府主義者らしいな」  こいつはほんもののアホだな、と、始は断定した。現在の政府を枇判するから共産主義者だ、無政府主義者だなんて、ナチスの残党でも恥ずかしがるような低次元の決めつけではないか。  始は共産主義体制がきらいである。まず一党独裁というのが気に入らない。始は、いつでも少数派の立場を守りたい、野党精神を失わずにいたい、と考えている。ゆえに、野党の存在を認めない共産主義体制に、共感を持つことなどできないのだ。  つぎに、歴史文化を破壊する硬直した画一性が好きになれない。東ヨーロッパの美しい古都市の、歴史ある地名が、「レーニン広場」だの「スターリン街」だのに変えられたのを知ると、なさけなくなる。その点、中国は文化大革命の最中でも北京を毛沢東市なんぞと改称したりしなかった。さすがに文字の国だ、と、始は感心したりするのだが、まあこれはよけいなことである。  だが、そういったことを口に出して説明する気に、始はなれなかった。話してわかるような相手ではない。秀才だか官僚だか知らないが、自分の考えも自分の言葉もない。始をののしるのさえ、他人が使いふるした手垢《てあか》のついた冷戦時代の言葉を使うことしかできないのだ。  憎悪には値しない。軽蔑するだけの相手だった。悪党ですらないのかもしれない。独自の価値観がないのだから。だが、このような男が、権力構造のなかで大きな力をふるい、社会を支配できるような時代もあるのだ。  たとえば、一九五〇年代のアメリカ合衆国では、「アメリカの社会を害する本とその著者を、社会から追放しよう」という一大運動がまきおこった。  その結果、まず犠牲になったのが、「ロビン・フッドの冒険」である。義賊ロビン・フッドは金持ちから金を奪って貧しい民衆に分け与える。これは共産主義思想を宣伝する悪い本だ、というわけである。  つぎに「トム・ソーヤーの冒険」と「ハックルベリ・フィンの冒険」が槍玉《やりだま》にあげられた。トム・ソーヤーは学校や教会に行くのをさぼる。ハックルベリ・フィンは父親から逃げ出して各地を放浪する。だから、これは健全な家庭のありかたや学校教育制度を否定する、無政府主義の本だ、というわけだ。こんな本を読んではならない!  「ロビンソン・クルーソー」や「十五少年漂流記」も読んではならない。無人島に漂流して自分たちだけで勝手な生活を送るなど、国家制度を否定する思想である。このような悪書は焼きすてるべきである。  ……信じられないほどばかばかしい話だが、「マッカーシズムの時代」として知られる歴史上の事実である。世の中には、狂犬のような人たちがいて、そういう人たちが権力をにぎると、自分が気に入らない本はすべて悪書と決めつけ、その著者を社会的に抹殺しようとするのだ。民主主義の総本山といわれるアメリ力でさえそうなのだ。もともと日本のように少数派を排除する傾向のつよい社会で、始たちが疎外されるようになるのは当然かもしれない。他人と同じことさえやっていればいい、他人とちがうことをすれば村八分されるような社会だから。「一億一心」、「挙国一致《きょこくいっち》」がこの国の社会正義なのだから。  いずれにしても、これ以上、蜂谷と不毛な会話をつづける気になれなかった。ついやした時間は五分くらいのものだったが、充分すぎるほどだ。 「レディLに会わせてくれ。使いふるしのスピーカーにこれ以上、用はない」  大股に歩き、ドアに手を伸ばしたとき、ドアは自分のほうから開いた。 「はじめまして、東侮青竜王|敖広《ごうこう》」  いつわりの好意にみちた声が始を迎えた。       ㈽  レディLは、蜂谷にむかって部屋を出るよう命じると、始に徴笑を向け、これまでのことを表面的ながら説明した。 「というわけで、一度は望ましからぬ結末になったけど、わたしはあなたたちドラゴン・ブラザーズを賓客《ひんきゃく》として迎えたいの。話だけでも聞いてくださらない? それが王者の度量というものよ」 「けっこうだね。だが前提として、弟を自由の身にしてもらおう。でなきゃ会議室のドアは開かんよ」  勧《すす》められた椅子にすわりもせず、始が冷たく応じると、奇妙な笑いかたをしたレディLは、自分たちが進めている邪悪な計画について一方的に語りはじめた。 「わたしたちは、それを『ヴラド計画《プラン》』と呼んでいるわ」 「ヴラド?」 「ヴラド大公よ。一五世紀、東欧のワラキア公国の君主で、吸血鬼ドラキュラのモデルになった男」  レディLは語りはじめた。この長い夜の初期に、蜂谷に語ったのと同じ内容であった。ただし、さらに辛辣であり、悪意にみちていた。始の表情はそれほど変わらなかった。最初から眉をしかめていたので。レディLの話を聞くうちに、彼が困惑をおぼえ始めたのは、彼女が展開する日本社会への容赦ない批評が、かなり的を射ていることに気がついたからである。実際、始自身が続と話しあったことがあるように、一部の若い世代が異常な思考や行動を見せはじめているのは、残念な事実であった。 「つまりこういうことか」  不快だったが、始は確認してみた。 「ヴラドに見られるような、少数者や弱者に対する憎悪、残忍な攻撃性、非寛容性。こういった精神的な特性を、日本人に植えつけていったのは、四人姉妹《フォー・シスターズ》の計画だった、とそういうわけだな」 「というからには、現在の日本社会がヴラド的な精神のもとにあるということを、あなたも認めるわけね」  あざやかな切り返しが、始のロから言葉を奪った。おもしろいから、相手が抵抗しないから、自分が安全だから、どれほど非礼な、あるいは残忍なことをしてもよいという思潮《しちょう》は、ヴラド以下ではないか。ヴラドはすくなくとも自分のやることに責任をとったはずである。 「そういう種類の人間たちを育成したのは、あんたたちだというのか」 「そのほうが、あなたの気分は救われるのじゃなくて? キング・オブ・ドラゴン」  その一言が、始をぞくり[#「ぞくり」に傍点]とさせた。真に恐しいことは、これから先に用意されているようであった。始は表情に平静さをたもつよう努《つと》めながら、個性に欠ける返答をした。 「どういう意味だ?」 「こういう意味よ。想像力が完全に欠落し、自己保存本能と攻撃性だけが発達した、動物的な若い世代の出現。これは事実であって、否定しようがないわ。その事実が、わたしたち四人姉妹《フォー・シスターズ》の陰謀から生まれた、悪いのは四人姉妹《フォー・シスターズ》だ。そう思いこむほうが気が楽だろうといっているの。日本人たちが、自分自身の手でそういう世代を産み出したというより、はるかにね」 [#天野版挿絵 ]  始は舌を巻いた。このレディLという女性は、蜂谷などとは格がちがう。悪党にも格があるのだ。格下ほど、自分を客観視し、歴史における自分の位置を相対化する能力を欠くのである。 「ブルー・ドラゴン、あなたがもし普通の人間だったとしても……」  毒針をふくんだ声が、始の聴覚神経を、ちくちく刺した。 「他の人たちとちがう考えを持っているというだけで、少数意見の持主だというだけで、憎まれ、ののしられ、石を投げられるようになるでしょうよ。ましてや、あなたは……」 「人間ではない、か?」  苦笑をたたえて始はレデイLの言葉を先どりした。レディLの弁舌《べんぜつ》をすなおに聞いていると、始は精神的な酩酊《めいてい》状態におちいりそうだった。先刻の日本人にくらべ、はるかに魅力的な話だったが、永遠に聞いてもいられない。始は表面的な礼儀を無視し、強く言い放った。 「おれが言いたいのはこれだけだ。おれたちに手を出すな。おれたちのほうから手を出すことはない。だからあんたたちが手を出しさえしなければ、卜ラブルはおこらない。簡単なことだ」  始の視線を、レディLは動揺も見せずに受けとめた。靖一郎叔父の八二五〇倍くらいは度胸がよさそうだった。ただ正面から相手を見すえたとき、わずかだが奇妙な違和感をおぼえた。終と同じように、そう感じたのだ。つくりものめいた、不自然な、と、始はそう内心で表現した。 「まだ、話は終わってないわ、キング・オブ・ドラゴン」 「おれも終わったとは思ってない。だが、これ以上あんたの時間かせぎに協力する義務もない。行かせてもらう」  始がふたたびドアにむけて歩き出したとき、レディLが声を投げかけた。 「四人姉妹《フォー・シスターズ》が人類社会を支配している現状を、そのままにしておいていいのかしらね」 「知ったことじゃないな。おれたちは人類じゃないんだろ? 人類が四人姉妹《フォー・シスターズ》の奴隷なり家畜なりに甘んじているのは、人類の勝手だ。おれたちに汚れた手を伸ばしてきたときには払いのけるが、他人の頭のハエまで追ってやる義務はないね」  いつもそうだが、こういう舌戦《ぜっせん》のとき、始は自分が心から信じていることをロにしているわけではない。だが、実際、人類から疎外される身が、人類の行末《ゆくすえ》を心配してやる必要などないはずである。四人姉妹《フォー・シスターズ》の支配を受けいれるのも、栄養失調で死んでいく子供が何十万人もいるのに軍備拡張に狂奔《きょうほん》するのも、フロンガスの使用でオゾン層に穴をあけるのも、放射能性廃棄物の安全な処理法が確立されていないのに原子力発電をつづけるのも、人類の自由意思によるのだ。人類がその知能によって地球の支配者とやらになったのなら、その愚かさによって滅びるのは、理にかなっている。  ただ、人類が滅びる際にまっさきに社会的弱者が犠牲になるであろうことは不快だったが、そこまで言及《げんきゅう》すれば、レディLとの論争を長びかせることになる。 「終はどこにいる?」 「滑走路に出ている輸送機のなかよ。でもここから出て行かせると思うの?」 「そうしたほうが、あんたたちのためだ」  言いすてて、始はドアのノブをつかんだ。外に武装した兵士の列がいることを予測したが、それははずれて、廊下は無人だった。  閉ざされたドアを見つめながら、レディLは、ゆっくりと受話器をとりあげた。 「中将に伝えて。三分後に輸送機を発進させるように、とね」  この夜、基地には幾人も深夜の客があった。午前三時すぎ、五番ゲートと格納軍群の中間あたりで、プエルトリコ系の兵士がゆっくりとジープをたらせていると、楽しそうな歌声が聴こえてきた。若い女と男の子のコンビが、歌を合唱しながら近づいてきたのだ。  たしかに英語の歌なのだが、伍長には理解できなかった。 Ge, ge,gegegenoge! Sleep in bed in the morning, I'm happy I'm happy, Ghost have no school, No examination! Ge, ge, gegegenoge! Let's sing everybody, gegegenoge!  日本人ならわかる。これは「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌を英訳したものである。歌いおえた茉理と余は、「ハアイ」と、伍長に手をあげて挨拶した。余はともかく、茉理のウィンクに対して、兵士はたいそう感銘を受けたらしく、「ハーイ」と答えた上に、わざわざジープをおりて近づいてきた。  もし彼が平凡な一兵士でなく、高度の機密に通じていたら、このふたりがトーキョーを騒がせている兇悪なテロリストの一味であるとわかっただろう。そして、みすみす女子供にジープを奪われることもなかったにちがいない。 「……無免許運転に、強盗に、不法侵入に、器物破損、それに傷害」  三分後、ジープのハンドルをにぎりながら、茉理は、ため息をついていた。 「あーあ、今晩だけで前科何犯になったかわかりゃしない。お嫁に行けやしないわ」 「そんな心配しなくていいよ、茉理ちゃん、ほんとにうちの家族になればいいんだから。始兄さんだって、前科何十犯だよ」 「ありがと。うふっ、じつはね、そういってもらいたかったんだ。女ってずるいんだぞ、余君」  べつにずるくてもかまわないから、運転をきちんとしてほしいな、と余は思った。その心の声が聴こえたわけでもあるまいが、茉理は意外にていねいにジープを運転した。住宅地区のはずれに出たとき、欅《けやき》の街路樹の傍《かたわら》に小さな人影を見つけた。  そばかすだらけの顔と青緑色の目をした七、八歳の女の子が、車道にまで歩き出て、興味しんしんの態《てい》でジープをながめたのだ。 「あぶないよ、お家に帰りなさい」  やさしく余はいった。いつも末っ子あつかいされているから、たまにはお兄さんぶりたいのだ。女の子は、まばたきして余を見返した。にこっと笑ってくれたのはいいが、奇妙なジープから目を離そうとしないので、兇悪なテロリストたちは、ちょっと困った。 「ゴーホーム、プリーズ。でいいのかな、茉理ちゃん」 「そうね、とにかくこんな夜おそく外に出てちゃいけないわ、家にお帰りなさい、お嬢ちゃん」  苦労して単語を並べ、ジープをゆるやかに走らせたが、余がささやいた。 「ちょっと、ついてくるよ」 「まずいわね、こっちのほうから離れましょう」  ジープはスピードをあげた。女の子は、残念そうに立ちどまり、手を振ったが、すぐ夜の向こうに見えなくなった。  基地と外界との境界線は警戒厳重だが、内部は意外とゆるやかなものらしい。まあ日本では反基地デモなんてものも絶えてひさしいし、気がゆるんでいるのかもしれなかった。やがて低い金綱のむこうに白々とした滑走路が見えてきた。大きな輸送機がその端にとまっている。 「あの輸送機かしら」 「終兄さん、無事かなあ」 「無事よ」  明快に茉理が断言した。 「でなきゃアメリカ軍の極東最大の司令塔は、地上から消えちゃうでしょうね。それに、終君がアメリカ軍だろうとソ連軍だろうと、みすみすやられるわけがないわ」 「そう、そうだよね」 「ただね……」  茉理は小首をかしげた。 「ちょっと理解に苦しむのよね。それだけの危険があるのを承知の上で、あのレディLって女性《ひと》は、どうして始さんを基地に入れたのかしら」 「つかまえる自信があるんじゃないのかな。うぬぼれだとしても。きっとそうだよ」 「そうね。権力を持った人間て、うぬぼれが強いものね」  余と茉理の推測のうち、すくなくとも前半は的中していた。彼らの視線の先にあるC一五七輸送機の巨体には、竜堂終が乗っていたのである。       ㈿  好きで乗ってるんじゃねえや、と、終は胸のなかで毒づいた。竜堂家の三男坊にとって、事熊はいちじるしく不本意なものであった。ヘリで吊りさげられたまま基地に到着すると、ワイヤーとコードでぐるぐる巻きにされて、そのまま輸送機に放りこまれてしまったのである。この巻きかたが、じつに鄭重《ていちょう》で、コードには部分的な伸縮性があるため、竜堂兄第の異様なパワーをもってしても、容易に切れない。  しかも誰の指図《さしず》か、水を飲ませろという要求に対して与えられたのはワインだった。終はロマネコンティがどうとかさえずるようなワイン通《つう》でもないから、酸味の強い安物の赤ワインでもべつに異をとなえる気はなかった。で、結果としてひと瓶あけてしまったのだが、おかげでますます身体に力がはいらなくなり、なまけものの猫みたいに輸送機の床に丸くなって、「ふにゃあ」と鳴かんばかりのていたらくだった。  陰険紳士風の日本人が輸送機に乗りこんできて、終をあざけった。 「そう、そのままじっとしていたまえ。四人姉妹《フォー・シスターズ》の首脳部に初見参するに際して、君はまたとない手みやげになる」 「そんなのは、あんたのつごうだろう。何だっておれがあんたのつごうに協力してやらなきゃならないんだよオ」  酔っぱらっているので、普段《ふだん》よりますます柄《がら》が悪くなっている。若々しい頬が上気して、いつもは鋭くかがやいている黒い瞳がとろんとしている。  無個性だがぜいたくそうなアームチェアに腰をおろしたのは蜂谷だった。輸送機に乗せてもらって、彼は内心ほっとしていた。竜堂始に対する「説得工作」がまるで功を奏さず、レディLから面罵《めんば》されるかと思ったが、彼女は輸送機への搭乗を手配しておいてくれたのだ。  これで蜂谷はいちおラマリガン財団から身分の保障をえたことになるのだろう。彼は安心した。安心したが、竜堂始を言い負かすことができなかった記憶は不愉快だった。その不愉快さが、目前にいる少年、酔っぱらった不良少年に向けられた。 「おとなに対する口のききかたを知らんガキだな」  紳士の仮面が剥《は》がれて、陰惨なサディストの素顔がむき出しになった。彼はアームチェアからゆっくりと立ちあがり、終の傍《かたわら》に歩みよった。  彼自身は意識していなかった。そしてその無意識こそが、まさに特徴なのであった。「ヴラドの子孫」とか「ヒットラーの孫」とか「ファシズム型性格」とかいわれる人格の。自分が何よりもかわいく、自分は絶対に安全でなければならず、小指の先すらも傷ついてはならない。自分の安全を確保し、相手が無抵抗であることを幾重にも確認しておいて、はじめて暴力をふるうことができる。自分が罰せられないこと、抵抗されないことをたしかめずには、何ひとつできない。そしてその卑劣さ、醜悪さを、まるで自覚していないのだ。  このときの蜂谷が、まさにそうだった。相手はワイヤーとコードでぐるぐる巻きにされ、抵抗はできない。何をやっても安全なはずだった。こらしめてやろう、と、蜂谷は思った。 「口のききかたを知らんガキだ」  そう蜂谷はくりかえし、靴の先でかるく終の肩を蹴りつけた。 「よっぽど躾《しつけ》が悪かったんだろう。そういえば、お前らの祖父は反戦反軍部の活動で投獄された非国民だったな。あの祖父にしてこの孫ありだ。いずれお前だけでなく、お前の兄どもも縛りあげられて、はいつくばって、われわれの慈悲《じひ》を求めることになる。そうなれば、すこしは、ゆがんだ根性も直るだろうて」  そしてまた終の肩を蹴ろうとしたとき、終が身動きした。縛られたままの姿勢で、身体をころがし、蜂谷の脚に強くぶつかったのである。  体あたりというほどのものではなかった。だが、ちょうど蜂谷が片足をあげたタイミングだったので、みごとにバランスがくずれ、蜂谷は両手を振りまわし、バタフライでもするようなかっこうで、ぶざまに床に倒れてしまった。  失笑の声が聴こえた。オートライフルをかかえて部屋の隅にひかえていたふたりの兵士が、蜂谷のぶざまさを見て、つい笑いだしたのだ。その笑声が、蜂谷のプライドを悪い方向へ刺激した。屈辱が二重の刃で糸を切った。  はね起きた蜂谷は、「このガキが!」とわめくと、全体重をこめて終の背中を蹴りつけた。つづいて太腿のあたりを、肩を、腹を、たてつづけに蹴りつける。だが、ワイヤーにさえぎられて、意外に効果がすくない。  蜂谷はキック攻撃を中止し、床に片ひざをついて終の顔をのぞきこんだ。不敵な少年は、まだ酔いのなかにいたが、加害者の顔を見て皮肉っぼく笑いかけた。 「堂々と勝負しろよ、おっさん」  いうと同時に、勢いよく睡をとばした。よけそこねて、蜂谷は右頬から鼻にかけ、唾をひっかけられてしまった。ワインの匂いが鼻孔に侵入した。奇声を発してとびあがった蜂谷は、拳をかためて、終の頬をなぐりつけた。もう一度なぐり、さらになぐった。手が痛くなっただけで、さして効果はなかった。立ちあがって顔を蹴りつけた。鼻血がはねあがって、蜂谷のズボンの裾をよごす。  ふたりの兵士は黒人と白人だったが、蜂谷の狂態に顔を見あわせた。おどろき、あきれていたが、制止しようとしなかったのは、不干渉を命じられていたからである。  輸送機が動きだしたのにも、蜂谷は気づかず、一方的な暴力をふるいつづけていたが、ふとわれに返ってつぶやいた。 「レディLはどうした?」  足どりをたしかめつつ円形の窓にむかう。窓に顔を押しつけた。その瞬間だった。縛られ、傷つけられて身動きひとつできないはずの終が、兵士たちに驚愕《きょうがく》の叫びをあげさせたのは。  隣の窓ガラスが音を発して砕け、黒い影がすりぬけるのを蜂谷は感じた。終は、床からロケットのように飛びあがり、ガラスを頭つきで突き破り、窓から外へ、信じられない脱出を果たしたのだ。  終の身体は、滑走路にたたきつけられ、バウンドした。息がつまり、あらたな痛みが全身を襲った。だが、そのていどですんだのだ。常人なら、五メートルの高さからコンクリートにたたきつけられ、即死しないまでも重傷はまぬがれなかったはずである。ふうっと息をつくと、終は自分を鼓舞《こぶ》するようにつぶやいた。 「このていどでくたばっちゃ、兄貴たちに何をいわれるか、わかったもんじゃねえや」  だが、災厄はまだつづいていた。ワイヤーとコードの一端が輸送機の車輪にからまり、終は猛スピードでコンクリー卜面を引きずられたのである。車輸から発する火花が、終の身に降りそそいできた。 「竜になれ!」  自分にむかって終は命じた。さすがに彼も、不敵さだけで事態を切りぬけることはできなかった。ジェットエンジンの轟音が耳を乱打し、路面にこすれたワイヤーが白煙を噴きあげる。 「竜になれえ! なれったら!」  そのとき、終は横あいから長兄の声を聴いた。彼の名を呼んでいる。輸送機と並行して、人間には不可能な速さで走りながら、弟を救うチャンスをうかがっていた。 「終! 終!」  来てくれた、と思ったとき、緊張がはじけて、終の意識が拡散した。  白い光のかたまりが滑走路をつつんだ。空気がざわめいた。波状のエネルギーが大気を打って、滑走路ぞいにジープを走らせていた茉理と余は強い衝撃波を感じた。車体がよろめき、茉理はかろうじて横転をまぬがれながら車をとめた。 「……!」  誰にも聴こえない絶叫が機内に満ちて、輸送機は破壊された。機関部が爆発し、翼がちぎれ、大小無数の破片が空中と地上に飛散した。強烈なエネルギーが発散されたはずだが、より強烈で巨大なエネルギーのなかにのみこまれてしまった。極小の瞬間に、蜂谷は、自分の肉体が引き裂かれることを感じ、意識で泣きわめいた。その意識も四散して、すべてが消減する。  衝撃波で吹きとばされ、三転四転して金網にたたきつけられた始は、誰かの腕が自分を助けおこすのを感じた。だが、助けた者も助けられた者もたがいを見ず、みはった瞳を滑走路に固定させて声も出ない。  白銀色にかがやきわたる巨竜の姿が滑走路上にあった。 [#改ページ] 第九章 風を見た       ㈵  レデイLは窓ぎわに立っている。  彼女の視界では、白銀の光が美しく波だっていた。その波が大気の海をわたってきて、厚い窓ガラスがびりびりと震動した。傍《かたわら》でマクマホン中将がうめき、身じろぎしたが、レディLの関心を惹《ひ》くにはいたらなかった。 「ホワイト・ドラゴンが顕現《けんげん》したわ」  端整な唇に笑みが浮かぶ。数日前にレッド・ドラゴンの顕現を見たときに比べ、その沈着さは格段のものであった。彼女をそうさせたものは、経験であるのか、上位者からの指示であるのか、にわかに判断はつかなかった。いずれにしても、彼女は、これから先のことに思いを致《いた》しており、おこってしまった現実に、さほど重きをおいていないようであった。 「わ、私の基地があの怪物に破壊されてしまう。どうすればよいのだ」  マクマホン中将が声をゆるがせた。 「あなたの基地?」  レディLは鼻先で笑った。驕慢《きょうまん》さすら美を形成する要素のひとつにしてしまうかと思われる。このときのレディLは、完全に、女帝の風格をそなえていた。嘲弄されたにもかかわらず、マクマホン中将は圧倒され、言葉を失った。一歩しりぞき、レディLをまじまじとながめやったが、やがて両眼に憎悪と決意の色をたたえ、軍帽をわしづかみにして部屋を出て行った。荒々しくドアを開閉する音がしたが、レディLは見むきもしない。マクマホン中将のような男の、やることなすこと、ひとつとしてレディLの感銘をさそわないのであった。  白銀にかがやく竜の巨体は、滑走路上にある。その危険性さえ無視すれば、数億の宝石を並べたように美しい。滑走路上で爆発四散した不幸な輸送機のことなど、もう誰もおぼえてはいなかった。数千の人間が数千の銃をかまえ、数千の恐怖をいだいて、竜を遠巻きにしている。  風が吹く。いや、そのようにのどかなものではなかった。大型台風が上陸したかと思われる強風は、渦まきつつさらに強くなり、基地の風速計は三〇メートルから四〇メートルに、さらに五〇メートルに、上昇をつづけ、輸送機破壊から二分後には七〇メートルに達した。  街路樹の枝がちぎれ飛ぶ。アメリカ兵たちは悲鳴をあげ、腕で顔をかばいながら風に押しまくられて後退していった。キャンバスシートが蠣輻《こうもり》の翼のように飛び狂い、ジープは横転し、兵舎の窓ガラスが割れ、電線が切れて火花が宙にはねる。  強風で金網に押しつけられつつもようやく立ちあがった始は、自分の肩に誰かの手がおかれていることに気づいた。アメリカ軍の軍服が視界にはいったとたん、始がバンチを放つ。それは聞一髪でかわされて、聴きなれた声が叫んだ。、 「兄さん、ぼくですよ、ぼく!」 「続か」  いかにアメリ力兵の軍服を着用しているといっても、秒速七〇メートルの狂風下に、常人が立っていられるわけがない。続だとすぐにわかるべきであった。 「すまん、どうも気分が好戦的になっててな」 「いえ、どういたしまして」  声が大きくなるのは、風の怒号に負けまいとするからであった。耳がちぎれ、頭髪が根こそぎ持っていかれそうな風だ。 「すごい風ですね。これが終君の、竜としての力だったんですね。ひょっとして、兄さんはあるていど予測してたんじゃありませんか」  たしかに、始は考えていた。東海青竜王、南海紅竜王、西海白竜王、北海黒竜王。もって四海竜王と称する。それらの名は陰陽《おんみょう》五行説にもとつくものだが、それぞれが秘めた力は、四大元素説によって説明されるのかもしれない、と。四海はあくまで四海であって五海ではない。中海黄竜王という存在は、かつて語られたことがない。中央に座する者は、黄帝であり、すなわち竜帝であろう。とすれば、四海竜王の力は、べつの象徴的な元素によって説明されるべきではないのか。ここで思いつくのは、地水風火の四元素である。どうやら始の予想はあたったようだ。竜堂家の三男坊は風竜であったのだ。  風は咆えたけっていた。三〇〇〇メートルの滑走路は、狂風の駆けぬける長大な廊下となって、兇暴化した空気のかたまりを高速で送り出した。夜の闇全体が震動し、叫びくるい、兵舎の屋根をとばし、ついに街路樹の幹をへし折った。  横閨基地にある戦車といえば、重装空挺師団の軽戦車群だが、ホワイト・ドラゴンの巻きおこす狂風の前に、キャタピラを空転させるだけで、一メートルすら前進することができなかった。それどころか、ひときわ強烈な暴風が波うって襲いかかってきたとき、最前列の軽戦車がひっくりかえり、腹をさらしてしまった。 「だめです、近づくことすらできません」  悲鳴に近い報告を受けて、在日アメリ力軍司令部にはいったマクマホン中将は歯ぎしりした。とにかく火力をととのえ、憎むべきドラゴンを包囲するよう命じる。  茉理と余は、半ば暴風に吹きとばされながら、アメリカ兵の出動するようすを見た。 「あらあら、出てきたみたい、世界最強の自由を守る戦士たちが」  茉理の声は、好意的とはとてもいえない。ベトナム戦争の報道写真集を見て、アメリカ軍の化学戦の残虐さを知ったばかりなので。アメリカはベトナムで自由のために、ソ連はアフガンで共産主義のために、イラクはイランでイスラム教のために、多くの化学兵器を硬い、住民を虐殺したのである。 「お得意の神経ガスや枯葉剤は使わないのかしら。むりね。ごの風じゃ、自分たちが自分たちのガスでやられてしまうもの」 「ぼくたちもやられちゃうよ、きっと」 「そうね。早いとこ始さんたちに合流しましょう」  とはいっても、胞《ほ》えたける風は彼らから行動の自由を奪った。金網にしがみついてすこしずつ前進するのだが、金網それ自体が風にゆれ、倒れそうなありさまなので、彼らの身体はほとんど宙に浮いてしまう。  必死になって金縄にしがみついていた茉理の耳を、ふいに不思議な感覚がとおりぬけた。正体がつかめない。しいていえば飛行機内で気圧が変化したようだったが。 「え? なに、いまの?」  茉理が思わず声をあげたとき、奇怪なできごとがおこった。狂風暴風に耐えて夜空にそびえたっていた通信塔がぐにゃりと曲がり、くずれはじめたのだ。  くずれる。くずれていく。爆発するのではない。通信塔も、その下のアンテナや建物も、ほとんど音らしい音もたてず崩壊していくのだ。砂の山が波に洗われるよりも静かに、むなしく、はかなく。  余も茉理も、しばらくは吹きつのる狂風を忘れて、夢魔がもたらしたような暗夜の光景に見入った。いや、アメリ力兵たちも、銃を手に、地に伏せながら呆然としてながめている。「ジャイアント・卜ーク」と呼ばれる核攻撃命令の通信施設が、無音のうちに消減してしまったのだ。  奇怪なできごとに説明を加えることができたのは、竜堂始だった。 「続! 風と音とは同じものだ。空気の震動という一点においてな。そうじゃないか?」 「……ああ、わかりました」  続も理解した。「聴こえない音」を利用した、SF的というより空想科学物語的な兵器のかずかず。超音波砲とか高周波爆弾とか極低周波ミサイルとか。これもまた「西海白竜王《ホワイト・ドラゴン》」の力の一端だった。ソニック・ビーム[#ビーム? 普通はブームなのでは]を発する、巨大な生物兵器。四人姉妹《フォー・シスターズ》にとっては見逃しえない存在であろう。  そう思ったとき、始は不快なとげ[#「とげ」に傍点]を心臓に感じた。これを四人姉妹《フォー・シスターズ》は見たがっていたのではないか。レディLの不可解な態度といい、今夜のことはすべてしくまれていたのではないか。そう考えているところへ、余と茉理がようやく駆けつけて、竜堂・鳥羽連合軍は、ほぼ一時間ぶりに再集結を果たしたのである。基地に侵入する前のうちあわせどおり、滑走路の左と右にいて、たがいの位置は目でわかっていたのだが、これほど時間がかかったのは、やはり狂風で行動の自由を奪われたからだろう。       ㈼  在日アメリカ軍の三沢、嘉手納《かでな》、厚木、横須賀、各基地では、午前四時、あわただしい動きが見られた。それも道理で、これらの基地群を統轄《とうかつ》する横田基地が「ドラゴンに襲われた」というのである。  日本の空、そして極東全域から北太平洋にかけての空は、アメリカ軍の緊急通信波によって、数干の小片《ピース》に切りきざまれた。まだ前日の午後二時であるワシントンDCでは、ホワイトハウスと国防総省《ペンタゴン》の間に、電流のような緊張がたった。そして、これほどはでではなく、もっと秘《ひそ》やかに、スイスのチューリヒにも複数の通信波が送りこまれたことであろう。チューリヒは前日の午後八時、黒曜石《オブスイディアン》のような夜は、これから深まりつつあるところだ。  日本の空は、アメリ力軍使用最優先である。アメリカ軍は、民間機のつごうなどおかまいなく、民間空路の一時的独占使用《アルトラブ》を日本政府に要求できるし、場合によっては日本がわの意向を無視して、一方的な通告《ノータム》を出すだけで、飛行を強行することもできるのだ。一九七五年の日米政府間協定によってそうさだまっているのである。  いまアメリカ軍の戦閾機は、その特権を利用して、つぎつぎと離陸し、夜明け前のもっとも暗い空へ、轟音とともに飛び立っていった。ただ、午前四時前後という時刻では、事実上、日本上空に民間機の数はゼロにひとしく、その意味で、日本の民間航空界が受けた迷惑は、それほどではなかった。  はなはだ迷惑をこうむったのは、基地周辺の住民たちであった。ねばりづよい交渉で、ようやく夜間訓線をへらす協定をむすんだのに、午前四時にジェット戦闘機の轟音をひびかされたのでは、たまったものではなかった。  在日アメリ力軍の基地問題を受けもつ防衛施設庁には抗議の電話が殺一到したが、施設庁は電話の回線をカットしてひたすら沈黙を守った。いくら抗議されても、この夜の件に関するかぎり、どうしようもなかったのである。  二〇世紀の終末を数年後にひかえた今日、アメリカ空軍の主力戦闘機は、「衛星高度戦閾機《サテライト・ファイター》」と称される速度マッハ一○の超高度戦闘機に移りつつある。日本の基地にも近く配属されるはずだったが、まだこのときは通常型戦闘機が動員された。  厚木基地を飛びたった戦闘機は二編隊一二機であった。厚木から横田までは直線距離にして三〇キロ、時間的にはほんの一、二分である。  ドラゴンの実在は、ここ数日、TVでもラジオでも新聞でも、いやになるほど吹きこまれている。卜ーキョーのシンジュクでファイヤー・ドラゴンが出現したとき、グリーンベレーの連中がなぜか出動したという噂《うわさ》も聞いている。それでも、「まさか」という気分が、パイロットたちには強い。ソ連をはじめとする共産主義国の陰謀だというほうが、よほど信じられる。  だが、横田上空に達しかけ、高度をさげたとき、すさまじい気流と煙流のなかに、彼らはありえざるものを見た。第一編隊の隊長は、自分の視力をうたがった。 「前方に……」  絶句に絶叫がつづき、各機の通信回路は、耳をつらぬく悲鳴に満たされた。 「前方にドラゴン……白いドラゴンが……Ah!」  音もなく隊長機は四散し、白い破片となって消えさった。白竜が放ったソニック・ビームの直撃を受けたのである。生き残った他機は、ただちに副隊長機の指揮下にはいり、攻撃を開始した。  つぎつぎと、白銀の巨竜にむけて空対地ミサイルをたたきこむ。それに呼応して地上からも砲撃が再開された。  撃ち出される対戦車ミサイル、ロケット砲、ことごとく竜身にとどかない。目にも見えず音ともならぬ音波の壁にさえぎられ、つぎつぎと空中で分解してしまう。  ドラゴンは悪魔の化身だ、ということを、アメリカ兵たちは実感した。核ミサイルを撃ちこんだところで、ドラゴンをつつむ音波の壁を突破することができるとは思われなかった。  厚木から飛びたった一二機の戦闘機は、二分たらずの間に全機空中分解してしまった。白竜が長首をくねらし、ソニック・ビームを放つつど、アメリカ空軍が誇る軍事技術の結晶たちは、紙細工のように引きちぎられ、無数の破片となって、狂風のままに散らばっていく。  白銀にかがやく竜が、長首をゆらした。白熱した両眼が地上に向けられた。マクマホン中将がたてこもる司令部ビルを見すえたようであった。  ソニック・ビームが放たれた。司令部ビルは一瞬、震動したように見えた。その輪郭がぼやけ、すべての窓ガラスが砂粒状にはじけた。コンクリートがくずれ、鉄骨がくだけ、建材の破片が雲をつくった。内部にいた要員数十人が圧死したであろう。  マクマホン中将は、地下の核シェルターにひそんでいた。基地どころか、トーキョーが核攻撃を受けても、ここにいれば安全だったはずだ。だが、ソニック・ビームによってその厚い天井もくだかれ、シェルターの内部は白竜の瞳にさらされた。  しゅっと何かが走るような音がした。  マクマホン中将の太い頸《くび》が切断されていた。  悪夢を見る思いで副官があえいだ瞬間に、切断口から鮮血が噴きあがり、頭部を失った死体は、軍服を自らの血に染めて床に倒れた。副官は腰をぬかした。目に見えぬ何者かが、中将を斬首刑に処したのだ。床にころがった中将の首がうらめしげに部下をにらんだ。  古来、日本でいうカマイタチである。これも「風」の力の、ささやかなひとつであった。カマイタチという日本語を知らない副官には、ドラゴンの魔力としか思えなかった。軍事力に対する妄信《もうしん》がはじけ飛び、副官は頭をかかえて床にはい、神の助けを求めた。  ホワイト・ドラゴンは、卑小な人間などにそれ以上の興味を見せなかった。白熱した双瞳《そうどう》が、航空燃料の倉庫にむかった。ソニック・ビームがとんで倉庫群は崩壊した。流出した液体は、燃えるジープの炎と接触した。  引火した。大爆発が生じた。  轟音は東京都心にまで達し、炎の柱は夜空に沖《ちゅう》した。わきおこった爆風は、白竜のおこした風におとらなかった。  燃料庫から流れ出た航空燃料は、そのまま炎の流れとなって基地の各処へ伸びた。深紅と黄金の流れから黒煙が生じ、雲となって基地をおおった。  その雲も、すさまじい狂風のために散らされた。爆風は一過性のものだったが、ドラゴン・ストームは長くつづいて、いつ終わるともしれなかった。基地内の各処で、炎の流れに何かが引火して大小の爆発が連続した。火と風は、たがいに煽《あお》りあい強めあって、横田基地を席巻《せっけん》しつつある。  風速八○メートル、あるいはそれ以上か。基地の広さそれ自体が障壁となって、まだ市街地は大きな損害を受けてはいない。それでも、狂風によって窓ガラスは割られ、商店の看板は飛び、二、三、飛び火による火災も発生している。この先、さらにひどくなるだろう。東京西郊の都市群が空前の大火にみまわれるのは時間の問題だった。 「基地なんぞ燃えてしまってかまわん。だが、周辺の町が大火にみまわれては気の毒だな」  始はつぶやいた。  アメリカ軍基地は、日本を守るためにあるのだという。ここに、いささか古いがひとつの資料がある。一九五二年から八四年までの間に、在日アメリカ軍がおこした事故および犯罪の数は一七万八四七三件。それによって死亡した日本人は一二一〇名。日本の法律によって処罰されたアメリカ軍人はゼロ。アメリカに帰って刑に服した者ゼロ。日本を守るとは、何者から何を守るということだろうか。始は疑問を持たざるをえない。それとも、「ソ連が日本を侵賂したら、もっとひどいことになるから、アメリカ軍の犯罪ぐらいがまんしろ」ということだろうか。そういう論理で、死者の遺族たちを納得させるごとができるかどうか、やってみるといいのだ。  このとき基地のメインゲート前では、炎を見て駆けつけた消防車群が、兵士たちによってさえぎられていた。 「日本人どもを一歩も基地にいれるな!」  その命令がとび、アメリカ兵はゲートの前に立ちはだかって、消防車の進入をはばんだ。守るべきは基地の治外法権であり、軍事黴密であった。だが、狂風の前には、まともに立つことすらできず、一秒ごとに兵士たちの動揺は高まっていった。 「火は家族住宅のほうに向かってるぞ」 「冗談じゃない、おれの家族はどうなるんだ」 「士官の奴ら、自分たちの住宅は風上にあるもんだから、平気なんだ」 「やってられるか。おれは行くぞ!」 「おれも行く。こんなところで焼け死ぬなんて、まっぴらだ」  誰が煽動したわけでもなく、命令したわけでもない。兵士たちはごく自然に秩序を乱しはじめた。ひとつには、司令官マクマホン中将が死亡したため、指揮系統も混乱しつつあったのだ。彼らの後方で騒ぎがおこった。ひとりの兵士が、侵入者らしい四人づれを発見して誰何《すいか》したのである。返答はなく、気がたっている兵士は、問答無用で突きかかった。  突きこまれてくる銃剣をかわしざま、始は、正確すぎるほど正確なパンチを相手のあごにたたきこんだ。プロレスラー級の巨体が、後方へ吹っとぶ。いろめく兵士たちにむかって、もうひとりの若者が叫んだ。その若者は、どういうわけかアメリ力軍の軍服を着ていた。 「さっさと自分たちの家にもどりなさい。上官はあなたたちの家族を助けてはくれませんよ。ご自分でお助けなさい」  兄よりずっと英語がうまい続である。これは事実を告げることによる煽動であり、したがって最高の煽動であった。兵士たちは、軍隊という非人間的な機構の歯車から、感情を持った個人に帰り、狂風に吹きとばされるようにそれぞれの家族のところへ走り去った。  なお風と炎は狂いまわっている。  北太平洋上の原子力空母「覇王《ダイナスト》」が、排水量九万一九〇〇トンの巨体を、ゆっくりと西へ向けた。つきしたがうミサイル巡洋艦一隻、フリゲート艦六隻、高速攻撃艇《FAC》六隻、補給艦二隻も、海面に白い航跡を残しつつ、日本領海へ艦首を向ける。  この縁域では、すでに朝の尖兵《せんべい》が白い刃で闇をなぎはらいはじめていた。殺人と破壊のために、巨万の資金を投入して建造された大小一六隻の「新無敵艦隊《ネオ・アルマダ》」は、まるで陽の光から逃がれるように、太平洋西岸一帯をおおう夜のなかへと突き進んでいく。 「覇王」の艦上では、一八機の衛星高度戦闘機、七四機の通常型戦闘機が発進態勢をととのえつつあった。       ㈽  戦車「アイアン・ドラゴン」の砲撃を受けることもなく無事だった日本国の首相官邸では、疲労しきった官房長官が、血走った目に冷たいタオルをあてていた。この夜五本めのスタミナ・ドリンクの瓶をクズ籠《かご》に放りこみ、秘書官にむかってどなる。 「防衛庁長官はまだ見つからんのか!?」  超タカ派で知られる防衛庁長官は、この重要なときに姿を見せない。かこっていた妾《めかけ》の家に行ったというが、そのお妾さんの家が秘密だとかで、まだ判明しないのである。とんだ軍事機密だった。 「ええ、何てことだ。日本は先進国で、民主国で、法治国家じゃなかったのか。それが、どいつもこいつもやりたい放題」 「あの……竜に対して法律の適用ができるでしょうか」 「そんなことを言ってるんじゃない! 私が言いたいのは……」  官房長官は口をとざした。「首相は何をやっとるんだ」とは、部下たちの前で、さすがに口に出せなかったのである。タオルを放り出して立ちあがると、感情をおさえながら尋《たず》ねた。 「首相はどこにおられる」 「つい先ほど公邸にお帰りになりました」 「公邸へ? 公邸で何をしておられる?」 「お寝《やす》みになったようです」  その一言で飛びあがった官房長官は、足音もあらあらしく、長い渡り廊下を歩いて首相公邸におもむいた。公邸にはいると、むっとした暑気が押しよせたのは、古い建物のことで、先ほどクーラーが故障したのである。寝室のドアをあけて、官房長官は叫んだ。 「首相、何をなさってるんです!?」 「わ、私は何も知らんよ」  蒲団《ふとん》をかぶったまま、首相官邸の借家人はふるえ声をくぐもらせた。この熱帯夜に、よくまあ頭から蒲団をかぶっていられるものだ、と、官房長官は感心したが、感心してばかりもいられない。噴き出る汗をぬぐおうともせず、蒲団の端をつかんだ。 「首相、あなたは一国の最高行政官でいらっしゃるんですぞ。アメリ力軍も自衛隊も、あなたをないがしろにしてふるまっています。あなたがこの国の秩序と平和のもとじめであることを、思い知らせておやりなさい」 「そ、そんなものはどうでもいい」 「そんなものですと!?」 「私は首相なんぞ辞《や》めるよ。こんな目にあうつもりで首相になったんじゃないんだ。君に代行を頼むから、好きにしてくれ」  やがて蒲団をひっぺがすことを断念し、官房長官は公邸から官邸にもどってきた。暑さと怒りと失望で、目がくらむ思いだ。官邸にもどると、こちらのクーラーはきちんと動いていたが、そのことにも気づかないほど、官房長官は脳細胞が煮えたぎっていた。  それはまあ、あの人が辞《や》めるといえば、喜ぶ者たちの数がさぞ多かろうが、しかし、いちおう首相にはちがいないし、むりやり他人に首相にされたわけでもあるまい。巨額の工作資金をつかい、他人をけおとし、なりたくてなった首相の座であるはずだ。それなら、地位にともなう責任を果たしてもらう必要がある。 「どういたしましょうか、官房長官」  ため息をまじえた内政審議室長の問いに、官房長官は答えた。 「心配いるまい。夜があけて明るくなり、騒動がおさまったら、辞任する気などなくなるさ。そのうち蒲団むしに耐えかねて出てくるだろう」  吐きすてるとはこのことである。官房長官は、ネクタイをゆるめた。冷房が汗をひやし、一段と官房長官の不快感を濃くした。  横田基地をめぐる大混乱と破壊を喜ぶ者も例外的に存在する。港区麻布台、アメリカ大使館から一キロ離れたソ連大使館では、やせたアメリカ大使の二倍近い体重をもつソ連大使が、女性の二等書記官と同じベッドで、潜在敵国の災難を笑っていた。 「長生きはするもんやな。アメリカ軍がああもこてんぱんにやられるのを見られる。金あまりでのぼせとる日本が、横面《よこつら》はられるのも見物できる。ドラゴンさまさまやで」  日本語で表記すると関西弁ふうになってしまうが、これはウクライナなまりのロシア語である。 「そやねえ。そやけど大使はん、こないなとこで油売っててもええのん? 何か大使らしいことしはったほうがええんとちがう?」  大度は悦《えつ》に入った笑声をたて、資本主義社会の産物であるはずのスコッチをあおった。大使館の周囲もかなり風が強まり、窓ガラスが鳴っているが、大使は気にしたようすもなく、アルコールくさい息を大量に吐き出した。 「かまへん、かまへん。ドラゴンのことはな、何や知らんけどクレムリンの最高機密になっとるねん。ワシントンDCとの間に、えらいさんどうし話がついとるらしいし、うっかり口出したら、シベリアの奥で配所《はいしょ》の月ながめることになるんや。ほっときほっとき。わしらはここで高処《たかみ》の見物しとったらええねん」 「そやけど、あんまり何もせえへんと、それはそれでモスクワの監察が怖《こわ》いんとちゃいますのん?」 「そやな、けど何かするにしても、夜が明けてからでええわい。どうせ外は公安警察《コーアン》が包囲しとるし、わしが起きとっても日本人の手助けになるわけやないしな。他人の不幸は、ええ酒のつまみや、がははは、せいぜい楽しませてもらおやないか」  豪快に、かつ下品に笑って、労働者人民の国の大使どのは、愛人とふたりで、TV画両を見ながら、資本主義的なベッド体操にふけるのであった。  誰かが楽をしている分、誰かが苦労しなくてはならない。横田基地にいる兄弟は、高処の見物をしているわけにはいかなかった。 「でも、どうやって消すんです?」  続が兄に問う。白竜の力には底がないようで、咆哮する風はいささかも勢に衰えをみせず、火は金網をこえて基地外にあふれかけている。基地周辺の町では、火と風に挟撃され、半ばパニックにおちいったようだ。 「この火勢と、それに風です。よほどの豪雨でも降らないと、とても消えるものではありませんよ」  不意に続は言葉を切った。むしろ自分自身の想像におどろいたように兄を見やる。 「兄さん、まさか……」 「お前さんの考えているとおりだ。ここに生きた貯水池がいる」  まだよく事情がのみこめないでいる余の肩を、始は軽くたたいた。末っ子の余は、北海黒竜王であり、水をつかさどる。雨を降らせることができるのだ。それはこの六月、東富士の自衛隊演習場を水びたしにしたことで実証ずみであった。  それなのに、なぜ、数日前に新宿新都心が炎上したとき、余を使って雨を降らせることに思いおよばなかったかというと。  正直なところ、摩天楼群、ことにお役所ビルなどぶっこわれたところで、何ら始は痛痒《つうよう》を感じない。再建にまた税金がつかわれるというのが癪だが。切実《せつじつ》さが欠けるので、どたんばの知恵を生むこともなかったのだろう。それに加えて、あれは続こと南海紅竜王がつくった超自然の火であって、北海黒竜王に消せたとはかぎらない。今回、火はあくまでも副産物であって、竜王自身の力でつくられたものではないから、消せるのではないか。理屈《りくつ》をいえば、そういうことである。だが、始は、自分の理屈を実証する手段をいまのところ持たないので、推測といえば推測であるにすぎない。万事そうだが、始が自分たちの正体にせまる方法は、つねに手さぐりを余儀なくされていた。 「余、あの火を消せるのはお前だけだ。このままだと基地のまわりがあぶない。火を消してくれ」  長兄にそういわれて、末っ子はびっくりしたように目をみはり、手みじかな長兄の説明を受けて考えこんだ。考えこみはしたが、長い時間ではなかった。 「消せるのは、ぼくだけなんだね」  余は確認した。 「ぼくが竜に変わる、すると雨を降らせることができるんだね」 「そうだ、お前は伝説の北海黒竜王|敖炎《ごうえん》で、水をつかさどることができる[#馬から落馬のような表現]。この火事を消すことができるんだ。お前だけがね」  何かに気づいたようすで、続が兄の顔を見なおした。 「兄さん……」 「ま、そういうわけだ、続」  余に対して、始は、竜の力を建設的な方向に使うチャンスを与えたのだ。長男から三男までは、「人類の敵で何が悪い」と思っているにしても、末っ子はそこまで開きなおることはできないのではないか。自分の能力が、プラス方向に生かせるという認識。それは一時的な不安解消の行為でしかないのかもしれないが、一時的にせよ必要なものがたしかにあるのだ。いずれかならず春が来るからといって、冬の暖房を無用視するわけにはいかないではないか。  余が決心したように口を開きかけたとき、思いだしたように茉理が始を見やった。 「でも、待って。竜に変化するには生命の危機が必要なんでしょ。よくわからないけど、そうじゃないの?」 「まあね」 「じゃあ、余君を死ぬような目にあわせるの?」  茉理は始を信じている。幼児のときからずっと信じてきた。だから、自分自身でなく弟を危険にさらそうとするかに見える始が、意外なのである。始は茉理を見返し、どう説明すべきか迷ったような表情をひらめかせた。 「茉理ちゃん、おれがやれることなら、おれがやる。弟にさせやしない。だが、おれの力は雨や水に関係ないんだ、たぶんね」  わずかに始は言葉をにごした。 「余の力なら確実だ。余だけにできる。だから余にさせる」 「でも生命にかかわるとしたら……」 「これまではそうだった。だが今度はべつの方法を考えている。それでも余自身には覚悟をしてもらわなきゃならんし、この猛火を放ってはおけない」 「どうです、余君、やりますか?」  続が問いかけ、それにつづいて茉理が余の上膊部《じょうはくぶ》をつかんだ。 「余君。これは君の自由意思なんだからね、いやならはっきりことわるのよ」 「ぼくはやるよ」 「いや、自由意思じゃない」  始は断言し、にわかに威儀《いぎ》を正した。 「余、いや、北海黒竜王|敖炎《ごうえん》。東海青竜王|敖広《ごうこう》が竜種の長として命じる。西海白竜王|敖閨《ごうじゅん》を正気《せいき》にもどし、その矯激《きょうげき》をおさえ、もって乱を治《ち》に返せ。よいな」  その厳格な命令を受けて、余のほうも首筋を伸ばした。まっすぐ兄を見あげる。 「はい、ご命令どおりにいたします」  意識してか否か、言葉づかいまであらためている。うなずいて、始は末弟の前に両ひざをつき、その額に掌《てのひら》をあてた。 「茉理ちゃん、家長の命令は絶対です、ぼくだって兄さんに命令されれば、どんなことだってしますよ。竜に命令できるのは竜だけなんです」  茉理の肩に手をおいて、続は、おだやかだが確乎《かっこ》たる声でいった。 「兄さんが余君を危険な目にあわせるはずがありません。見ていましょうよ、ね?」 「ええ」  茉理はうなずき、始を見守った。そうなんだ、と、彼女は思った。始を信じられなくなった瞬間に、自分たちのつながりは切れ、みんなはばらばらになってしまう。始を信じることは、自分たちがこれからさきそろって生きていくための前提なのであった。 「よし、いいか、余、目を閉じて全身の力を抜いて……」   始が試そうとしていたのは、むしろ自分自身の能力だった。竜としての能力ではなく、弟たちの能力を制御する役目を、彼は自分自身に課そうとしていたのだ。先だって、火竜と化した続を、始は、生体エネルギーの放出によって人身にもどすことができた。あれを応用することによって、人身を竜身に変化させることはできないだろうか。もしそれができれば、すくなくとも変身の手段だけは自分たち自身の手中に確保することができる。それは原理や真理を究《きわ》めることではなく、単に技術的なレベルで、手段を把握するだけのことでしかないが。それでもよい。すくなくとも、これまでのように偶発性と受動性に甘んじる境遇からは、一歩を進めることができる。小さな一歩だ。だが一歩を進めることを否定する者は、いつか一万歩を後退することになるのである。 「想像するんだ。竜になって天を飛翔する自分の姿を想像しろ。お前の意識は、肉の殻《から》を破ってはばたく。遠く大きくはばたく。足が地を離れる……」  彼らの周囲で狂風は咆え、火の流れがせまって、草が燃えあがりはじめた。熱気と風圧が、彼らをつつんでねじ伏せようとする。耳をふさぐほどの音響がとどろいているはずなのに、兄にささえられて立つ余は、兄の低いささやきを聴くだけだった。何か気分がぼうっとしてきて、兄が額にあててくれた掌《てのひら》の温かみだけが、体内に流れこんでくるように感じられる。むろん、これは始が、集中させた自分の思念エネルギーを余に流しこんでいるのだ。すべて我流であり、だいたいにおいて我流とは効率の悪いものである。  息をのんで見守っていた茉理が、何かを感じて続を見やると、次男坊はおそろしいほどの真摯《しんし》さで兄の作業を見つめていた。兄のやりかたを、すこしでもおぼえておかねばならない。長男にできないときは、次男がそれをやらねばならないのだから。 「上昇する。拡散させる。心をひろげて、そうだ、空を吸いこんでしまえ」 「兄さん……何か変な気分……はじけそうだ……はじけそうだよ」  余の額にあてた始の掌が、強烈な力で押しもどされそうになった。始はその瞬間が近いことを感じた。弟と従妹にむかってどなる。 「さがれ!」  むりな注文だった。一歩さがれば、燃えあがる火の壁と抱きあうことになる。とっさに続も茉理も対応に迷った。  赫《かっ》と空間が白熱した。始は飛びのいた。余の全身が白い光のかたまりになり、視界を漂白し、網膜を灼いた。 「伏せろ!」  叫びざま、始は長身をひるがえした。右腕で茉理を、左腕で続をかかえこみ、地に伏せた。背中を強い力でたたかれて息がつまった。炸裂したエネルギーが、あらゆる方向に、空間をつらぬいていったのだ。  伏せた身体の上でエネルギーが渦まき、下で地が震動した。茉理は目を閉じ、従兄の腕に守られた自分を感じ、伏せた頬に大地の肌ざわりを感じた。と、地に触れないもう一方の頬に、冷たい点がはじけるのをおぼえた。点の数がふたつに増え、みっつになり、やがて音をたてて茉理の全身に雨が降りそそぎはじめた。  夜明け近いはずの空は、深夜に逆行したように見えた。広く、厚く、黒く暗い雲が、基地の上空にひろがっていく。それにともなって、数億粒の雨滴が列をなし、地上へと降りそそぎはじめた。わずか数秒のうちに、雨の勢いは加速し、柿然《はいぜん》たる豪雨となって地を打った。  基地全体をつつみかけていた炎の流れに、雨が襲いかかった。火と水が兇暴に勢力をあらそい、しゅうしゅうと白い蒸気を噴きあげる。その間にも風はやまず、ときとして雨を水平に飛ばすかと思えるほどに吹きまくる。  破壊のかぎりをつくされた格納庫群や核シェルターにも雨は降りそそぎ、さらに地にあふれた水が、いたるところで火を消しながら、低みへと流れこんでくる。首を失ったマクマホン中将の身体も水流に洗われ、血が落ちて、何か無機的なマネキン人形を思わせる。  恐怖と、迷信的な畏怖とに駆られて呆然としていた副官が、雨の隠に打たれながら、ふらふらと立ちあがり、失われた天井ごしに暗黒の空をながめてうめいた。 「ドラゴンが……! ドラゴンがもう一匹!」  よろめいて壁に寄りかかり、頭をかかえた。べつの生存者がやはり空を見あげ、「ああ」とうめいたきり、こちらは目を離せない。いつか天空に二匹の竜が躍り、はためく雷光に巨大な身をさらしているのだった。  もはや完全な台風だった。狂風に雨が加わったのである。両者は勢いをきそうように天空と地上を荒れくるい、地をたたいた。ジープがひっくりかえり、空転する車輪が宙をかきむしる。かきむしりながら、風に押され、水流に押されて移動していく。滑走路は泥色の湖となって、寄せあう波がぶつかっていた。 「ありがたい、火が消えるぞ……!」  消防団員が基地の外で歓声をあげた。鞭《むち》うつような豪雨に打たれながら、笑みくずれ、手をとりあって喜んでいる。 「竜が雨を降らせたんだ、信じられるかい」 「どうだい、この前からTVなんかで竜は人類の敵だとかいってるが、そうともかぎらんじゃないか」 「竜神さまだ、雨神さまだ、ありがたいこった」  素朴な迷信をよみがえらせて、老年の消防団員が手をあわせた。  風とソニック・ビーム、火と水、超自然の巨大な力によって、極東アメリ力軍の中枢部は、すでに潰滅状態にある。  このとき、厚木基地からの一隊につづいて、三沢基地を発進した一〇機の通常型戦闘機が、暴風雨域に突入してきた。暗黒の空に彼らが見たものは、二匹のドラゴンが天を舞う姿だった。彼らは二〇世紀末の技術文明の世界から、多神教の神話世界に飛びこんでしまったのだ。 「攻撃せよ!」  隊長機が指令した。ドラゴンは反《アンチ》キリストであり、悪魔の化身であるというのが、彼らの宗教観であった。まして自由と正義を守るアメリカ軍の基地に害を与えるなど、悪魔の手先に決まっている。  一○機が攻撃態勢にはいり、空対空ミサイルを放とうとした瞬間、雷光が巨大な光の槍となって奔《はし》った。一秒の時差もおかず、一〇機すべてが火球となって爆発四散した。自分がかかえこみ、自分の意思で放とうとしていた殺人兵器によって、自分を滅ぼしたのである。機体の破片は雷の余光を受けてきらめきながら地上へと舞い落ちていった。  いま、二匹の竜は、嵐の空中で対時《たいじ》していた。  一匹の竜は、白銀色にかがやきわたっている。いま一匹の竜は、真珠色のかがやきが波うって消えた後、夜よりも暗い闇色と化した。それが光りかがやくように見えるのは、白竜のかがやきや雷光を鱗《うろこ》が反射するためであろうか。  双方とも、長さは優に一〇〇メートルをこすであろう。その身を宙にくねらせ、白熱した瞳と黒く深沈《しんちん》とした瞳をたがいにすえ、尾をねらうようにゆるやかに宙に舞う。その神話的な光景は、雨と風に乱打される地上からも、たしかに見えた。火は完全に消え、濁流に下半身をひたし、銃などとっくに棄《す》ててしまって個人にもどったアメリカ兵たちが、樹木や軽戦車にしがみついて空を見あげている。なかのひとりが、全身と声をふるわせた。 「最終戦争《ハルマゲドン》だ。一匹の竜は大天使ミカエルで、もう一匹は堕天使ルシファーにちがいない。それにちがいないぞ」  事実から遠い意見だったが、アメリカ兵たちにしてみれば、自分たちの育った宗教文化の既念で、事態を判断するしかないのだった。世の中には善と悪しかなく、自分たちこそが善である、という考えによって。核ミサイルと毒ガスと細菌兵器、戦闘機と戦車と潜水艦で、自分たちは世界に覇をとなえている。そのはずだったが、もはや無邪気に自分たちの力を信じこむことはできず、畏怖と敗北感に打ちのめされ、呆然と、暗い空に視点をそなえている。まさか、それがほとんど単なる兄弟げんかのじゃれあいにすぎない、などとは想像することもできなかった。  二匹の巨竜は同時に大きくうねった。  激突した。相手の力と自分自身の力とで、はね飛ばされたように見えた。白竜が躍って、黒竜の頸の後ろに一撃を加えようとする。黒竜が尾をうちふり、白竜の腹をたたく。雷光がひらめき、ソニック・ビームが走って、たがいの鱗を燦然《さんぜん》ときらめかせた。  たてつづけに雷光とソニック・ビームが投げかわされ、たがいの身にはじける。指向性を持つ破壊エネルギーは、地上へも投じられて、広大な基地の各処に落雷の火柱を噴きあげ、わずかに残された建築物を砂の家さながらにはじきくずす。白竜が黒竜のあご下に頭つきをくらわせると、黒竜は前肢をあげて白竜の頭をかかえこんだ。長大な尾が振りあげられ、振りおろされ、たがいの身を打つ。そのつど、雷光とソニック・ビームが炸裂し、解放されたエネルギーの余波が空中を踊った。  この時刻、関東平野の上空ほぼ全域が乱気流と雲と放電現象におおわれ、原子力空母「覇王《ダイナスト》」は貴重な艦載機《かんさいき》群を投入するタイミングを逸《いっ》したのである。  ひときわ烈しい閃光と落雷音が地表に襲いかかり、人間どもが目と耳をふさいだとき、白竜と黒竜は、自分たちすら耐えられないほどのエネルギーの渦中で相撃っていた。  二匹の巨竜は、ともに失速した。発光を消し、からみあいながら地上へ墜《お》ちていく。おりからさらに激化した雨のカーテンが、その姿を人間どもの視界から隠し去った。 [#天野版挿絵 ] [#天野版挿絵 ] [#改ページ] 第十章 ハッピーエンドはいつのこと       ㈵  まだ暴風雨がおとろえを見せず、雷鳴がとどろきわたるなか、レディLは、地上部を破壊された「ジャイアント・卜ーク」の地下深くで、モニターの画面に見入っていた。 「恐れいったわ、さすがに青竜王。竜をもって竜を制するとは、凡人のよく考えだすところではないわね」  レディLの口調に、率直な賞賛のひびきがあった。蜂谷などとはちがう。彼女は敵対者の美点を認めることができた。  大君《タイクーン》たちの遠謀深慮も、みごとに一角をくずされたことになる。この雨で、空前の大火をまぬがれたことは、何十万人かの人の意識に残り、竜を絶対悪視する見解に疑問をいだかせるだろう。人をあやつろうとする者にとって、批判的認識力というものは最大の障害物であった。 「レディLですね?」  不意に背後からひびいた声が、彼女の背筋に霜を生じさせた。奇怪なことに、その霜には、糖分がまじっていた。一種、甘美な戦慄を自覚しながら、レディLはふりむいて、突然の侵入者と相対した。 「南海紅竜王、おひさしぶりというべきかしら」 「せいぜい四、五日ですよ。あなたについての記憶を浄化するには、日数がすくなすぎます」  アメリカ軍の野戦服を着こんだ竜堂続は、レディLの甘美さに感応しようともせず、冷然と答えた。足下と背後に、すくなくとも四個の人体がころがっている。声を出す間もなく倒されたのであろう。唯一、レディLの気に入らなかったのは、続がアメリカ兵の悪癖をまねたように、ガムをかんでいたことである。東洋の神人が、下衆《げす》なヤンキーのまねなどするものではない。 「それで何の御用? わたしが先日、差し伸べた手を、あなたは振り払ったはずね。いまさら話しあう必要があるのかしら」 「話しあう必要などありませんよ。うかがいたいことがあるだけです、こちらに」 「…………」 「あなたの飼主である四人姉妹《フォー・シスターズ》の裏面を、もうすこしくわしくね」  続は一歩すすんだ。野戦服を着ていてさえ、優美な動作だった。猫科の猛獣の美しさ、あるいは空を舞う猛禽《もうきんん》の美しさである。死と破壊に直結する、不吉な朝焼けの美しさ。  一歩すすんで、続はとまった。レディLの背後の壁が割れて、影があらわれた。人影ではなかった。赤坂九丁目のマリガン財団分室で出会った巨漢。つくりものの身体と頭脳を与えられた、つくりもののパワーの持主。  だが、あらわれたのは、つくりものの強者だけではなかった。続に並んだあらたな人影がある。 「機械人形がお好きと見える。生きた人形だけではものたりないのかな」  東海青竜王! 別種の戦慄がレディLをつつんだ。とりつくろおうとして失敗し、レディLの動きから余裕が消えた。いそいで、というより、あわててボタンを押し、サイボーグの衛兵をさらに呼び出した。あわせて三体。無個性な巨躯[#原本では身と區を使った旧字体]が竜堂兄弟をさえぎろうとする。 「兄さん、ここはぼくにまかせてください」  続が微笑した。黄金づくりの剣に似た微笑。いかに美しくとも、危険に満ちている。  始は一歩さがって、弟に活劇の舞台をゆずった。始について室内にはいった茉理も、それにならって壁ぎわに立った。地下の秘密室は、それほど広くなかったので、続は軽いフットワークで敵襲をかわす余裕もなさそうに見えた。だが続は徴笑をたやさず、ポケットに手をつっこんだ。ひゅっと空気が裂け、サイボーグの眼球に何かが命中した。神経にさわる音がして、眼球から薄い煙があがる。  嘉義少林拳《チァイ・シャオリンチェン》の秘術、指弾《スータン》である。習練した拳士が指先で弾《はじ》きだす硬貨は、厚さ三センチの樫板をつらぬくという。まして、竜堂兄弟の力である。硬貨が飛ぶ速度は、銃弾のそれにひとしかったであろう。  正確に、サイボーグたちは左右の眼球を撃ちぬかれ、情報処理システムを損傷させられた。回転数をへらしたテープのように鈍重で不快な声をもらし、両腕をあげ、地ひびきをたてて倒れる。一体は操作卓《コンソール》に倒れかかり、電気の火花を発して、さらに床にくずれた。 「高価な玩具だ。こわすにはたった六〇〇円ですみましたけどね」  続がレディLに向きなおったとき、状況が急変した。レディLは、サイボーグを囮《おとり》に使っただけだったのだ。信じられないほどのスピードで彼女は横に飛び、むだのない動作でぬいた拳銃を、茉理の側頭部に突きつけたのである。 「お嬢さんに人質になっていただくわ。人それぞれ、役目があるというものよ」  銃口を突きつけられた茉理は、うろたえてはいなかった。 「わたしは始さんたちの従姉妹《いとこ》よ。すこしは同じ血が流れているわ。撃ってもむだだとは思わない?」 「そうかもしれないわね。でも、わたしとしては他に活路が見出せないの。悪女の悪あがきと釈《と》っていただいて、けっこうよ。あなたのほうにも、自分の立揚を拒否する権利があるわ」  ひと息ついて、低く笑った。 「どう、権利を実行に移してみる?」 「…………」  茉理は実行しなかった。勇敢な娘だが、無謀ではなかった。相手が本気であることをさとり、あがくのをやめた。 「そう、それでいいわ」  レディLは薄笑った。 「残念ね、足手まといになって、さぞ不本意でしょう」 「反省してるわ」  素直に茉理は答え、ごく自然な信頼をこめて従兄たちを見やった。人質にされてしまった以上、さわいだりおびえたりして、始たちの選択肢をいっそうへらすようなことはできなかった。レディLは右手で拳銃をかまえ、左手で茉理の右手首をたくみに押さえたまま、ドアのほうへ移動した。 「二大竜王に忠告するわ、すこしでも動いたら、お嬢さんのきれいな顔に穴があくわよ」  竜堂兄弟は手も足も出ないように見えた。  実際、手も足も彼らは出さなかった。続がふっと口笛を吹く形に唇をすぼめ、ガムを飛ばしたのだ。まるで鋭い鞭のように、ガム弾はレディLの手を打った。引金を引くよりはやく、しびれたような苦痛がはじけ、レディLの手から拳銃が飛んだ。それが床に落ちる寸前、茉理の足がそれを遠くに蹴りとばした。レディLにまさるともおとらない反射神経だった。まったく時差をおかず、始はレディLに躍りかかった。彼女が懐《ふところ》にいれた右手首をねじあげる。紫色に先端を変色させた太い針が落ちて床にはねた。毒針であることは明らかだった。レディLは床にねじ伏せられ、呪いの叫びをあげた。偶然に、始の左手がレディLのあごから耳のあたりをすべった。レディLはもう一度叫んだ。絶望からいなおりへの、奇怪な叫びだった。  始の手がとまった。レディLの美しい顔が人造皮膚のマスクであることを、彼の指先が触感したのだ。マスクのごく一部がめくれ、赤黒く焼けただれた皮膚がわずかにのぞいた。彼は指をひき、片手でレディLをおさえたまま、当惑《とうわく》の色をたたえて、四人姉妹《フォー・シスターズ》の女幹部を見おろした。あらあらしく、つくりものの笑いをうかべて、レディLは告白した。 「このマスクは内面が医療用のゼリーパームになっていてね、整形が完全にすむまで素顔を保護するのよ。デュバンの製品だけど」  四人姉妹の一員である化学産業財閥の名をレディLはあげ、自らの指をマスクにかけた。 「お望みなら、見せてあげましょうか。猛火の手に愛撫《あいぶ》された女の顔を……」 「その必要はない。悪かった」  手をはなし、一歩しりぞいて、始はかるく頭をさげた。レディLが敵であること、しかも容易ならぬ敵であること、四人姉妹の中枢につらなる存在であること、自分たちには彼女を憎悪する理由があること。それらをすべて承知した上で、始は、レディLのマスクをはぎとろうとした行為を、恥ずべきものに感じていた。ひょっとしたら単に、意外や女に甘いというだけのことかもしれなかったが、それならそれでもいいと思った。 「もうここに用はない、行こう、続、茉理ちゃん」  始にそういわれて、続と茉理はそれぞれの表情で、それぞれの兄と従兄を見やった。室外に出るまで三人とも何となく口をきかず、後ろを振りかえりもしなかった。       ㈼  自分のくしゃみで、竜堂終は目をさました。  頭上に夜明け寸前の空があった。奇妙に白濁した印象で、灰色の雲がいそがしく流れていく。  起きあがって、自分が裸であることに気づいた。もう一度くしゃみをし、やばいな、服を見つけなきゃ、と思って周囲を見まわすと、木片、金属片、泥などが無秩序につみかさなった傍に、終の弟が倒れていた。やはり裸だ。終はいそいで歩みより、弟をだきかかえてゆすぶった。 「おい、余、余!」  頬をひっぱたいた。濃い捷毛が動いて、余は目を開いた。黒曜石のような瞳の焦点があって、笑いが浮かぶ。 「あ、終兄さん、無事だった?」 「ああ、無事だよ、それにしてもさ」  終はあきれたように頭を振った。 「おれが服着てないのはわかるよ。竜になっちまったんだからな。どおんと、でかいのにさ。でも、何で、ハクション! 何でお前も裸なんだよ」 「ぼくも竜になったんだよ」  末っ子は胸を張った。ふたりとも裸で泥と水にまみれていたが、傷ひとつないのは、それこそあきれたことだった。終など、変身前に蜂谷に顔をなぐられたあとも、まったく残っていない。不思議がる三男坊に、末っ子は事情を説明したが、なに、余だって、長兄が額に手をあててくれた時点までしか記憶にないのである。 「ふうん、そうか。わかった。でもひとつ、はっきりさせておきたいよな。二匹の竜が空中で闘ってだ、勝ったのはどちらだ」 「さあ、よくわからないけど、火が消えちゃったのはたしかだね」 「ということは、ハクション! お前が勝ったのか」 「かもしれないけど、いいじゃない、そんなことどうでも」 「よかあない! おれは兄貴でお前は弟だぞ。はっきりさせとかないと、年長者としての立場がだな……」  むきになって、終が身を乗り出しかけたとき、何かが頭上から落ちかかってきた。アメリカ兵の大きな服にいっぺんに上半身をつつみこまれてしまった。あわてて首を出そうとするが出口が見つからな「議論をするなら、服を着てからやれ」  長兄の声である。「わっ、兄貴、もっと不幸な弟をいたわってくれよ」と言い返し終えないうちに、今度は次兄の声がした。 「さっさと服を着なさい。レディの前で失礼じゃありませんか」  茉理がいることを知って、三男坊と末っ子は、大いそぎでサイズのあわない服とズボンを着こんだ。戦場の放浪児ふうになってしまったが、とにかくレディの前はとりつくろうことができた。 「どうだ、気分は?」 「すっごく腹へってる」 「ぼくも!」  食べざかりのふたりが元気よくさえずって、扶養《ふよう》責任の持主を苦笑させた。 「やれやれ、いっぺんに日常にもどったな」  何よりもまず、朝の光が、日常性の回復を決定づけた。「暁の死線」をこせば、冒険と危険は夜のなかに忘れ去られてしまうようである。ようやく五人の顔がそろって、ゲートへと歩きだしながら、茉理が年少組のふたりに約束した。 「帰ったらすぐにご飯をつくったげる。ふたりとも、今夜というか夕べというか、大活躍だったもんね」 「茉理ちゃん、言葉づかいに気をつけてくれないか。大活躍なんていったら、こいつら、すぐ図に乗るから」  始は苦労性らしいことを口にした。苦労といえば、いまひとつ問題があった。父親との訣別《けつべつ》を決心した茉理の宿をどうするか、である。 「和室の続き部屋があいてるでしょう。あそこを茉理ちゃんに提供すればいいじゃないですか」  あっさりと、次男坊が解決案を出した。「自由奔放」と書かれた額が飾ってある和室は、もともと客用の部屋で、茉理が竜堂家で泊まるときはその部屋を使っている。この先、竜堂家に宿泊客が来ることもなさそうで、この際、茉理の専用にしてもさしつかえないだろう。そう指摘してから、続は、自分自身の案につけ加えた。 「まあ、いつまで使えるかはともかくとして、ですけど」  続の註釈は、それほど奇をてらったものではなかった。実際、こうなるといつ身辺に公権力の手が伸びても不思議ではない。事件のほとんどの部分は報道統制によって国民の目から隠されるとしても、それは捜査がおこなわれないことを意味するわけではない。第一、始は戦車の車外にいたのだから、姿を目撃なり撮影なりされている可能性は充分にある。 「また、もしテロリストとして逮捕されたとしても、無実の罪じゃないからなあ」  始は苦笑せざるをえない。マリガン財団分室に不法侵入し、自衛隊の戦車やヘリをかっぱらい、横田基地をぶっこわし、その間に官憲をぶんなぐったことは事実である。懲役五〇〇〜六〇〇年はくらいそうだ。まともな裁判がおこなわれるなら、だが。おそらくそうはならない。すべては、きちんとした法律などによらず、秘密のうちに処分され、つかまった竜堂兄弟は、アメリカ軍なりCIAなりの手に引きわたされて、生体実験の満漢全席《デラックス・フルコース》に招待されるだろう。そんな招待に応じる義務は、竜堂兄弟にはない。となれば、どこまでも逃げて逃げて、反抗してやるしかないようであった。 「こいつは先が長くなりそうだな」  何となく伸びをしてしまう始だった。  ふと、始は、レディLが日本の今日の状況について辛辣《しんらつ》に語っていたことを思い出して、そのことを続に話してみた。 「そうですか、ぼくはあの女は嫌いですけど、でも、いうことには一理も二理もあるようですね。実際、社会は腐敗してるし、人心は荒廃してる。日本人にかぎらず、人間という種自体が、とっくに限界にきてるんじゃありませんか」  続がそう指摘すると、始はすこし考えこんだ。 「だがな、どんな悪行や愚行でも、加害者がいれば当然、被害者がいるわけだ。いじめる奴がいれば、いじめられる人がいる。横暴な多数派がいれば、それに抵抗する少数派がいる。そして、現状に対する批判構神を持った人の数は、けっこうたくさんいる。人間はだめだ、と、決めつけるのはまだ早すぎると思う、たぶん……」 「兄さんはやさしいから」 「甘いからといいたいんだろう、ほんとは」 「わかりますか、やっぱり」  笑ってみせた続は、内心に、兄がレディLの仮面をむしりかけてはっとしたようにやめた、あの光景を思い浮かべている。自分だったら容赦なくむしりとって、レディLの素顔をさらしていた。そのくらいされても当然のことを、あの女はやっている。あの女のほうも、覚悟はしていただろう。だが、始はそうしなかった。手を引いてしまった。そうできないものが始の裡《うち》にはあったのだ。  わが度量、兄におよばず、と、続は思い、それをむしろこころよいことに感じている。東海青竜王|敖広《ごうこう》は、その勁《つよ》さと甘さ、双方をひっくるめて、竜族の長たるにふさわしい。続は考える。「補天石奇説余話」の記述や、船津老人の話が正しいとして、なぜ自分たちが敖家の、竜王家の一一七代めとして人の世に生を享《う》けたのか。もしかして、天界なり神仙界なりで旧《ふる》い秩序に反逆して、人界に迫われてしまったのかもしれない。自分たちの性格では、大いにありそうなことだ。あげくに人界でもまた権力者どもに迫われるとしたら、首尾《しゅび》一貫《いっかん》だけはしている。始兄さんなど、どんなところへ行っても叛乱や反体制運動のリーダーになってしまいそうだしな。そう考えて、続はおかしく思うのだが、たしかに始には改革者としての精神的な骨格があった。  むろん反逆者のすべてが建設的な改革者になれるわけではない。だが、改革者はすべて反逆精神の所有者だった。現状を無批判に受けいれ、ぬくぬくとそこに安住し、つねに多数派に所属して少数派を疎外するような人たちが、あたらしい歴史をつくった例はない。 「いずれにしても、ぼくはずっと兄さんについていきますからね。不肖の弟として。よろしくお願いしますよ」  続が心のなかでそう語りかけたとき、末っ子の余が茉理にむかって声をあげるのが聴こえた。 「あ、よかった、あの子、無事だったんだ」  夜半、余たちが乗ったジープを追いかけてきた、そばかす顔の少女が、母親らしい女性に抱かれて路傍《みちばた》にすわっていた。汚れて疲れているが元気そうだった。余と茉理は、ほっとしてうなずきあった。 「君たちは何者だ」と、元気のない義務感だげの声が、ゲートの近くで兵士のひとりからかけられた。ようやく立っているだけ、という印象の兵士に、終が片目を閉じてみせた。 「聞いておどろけ、謎の美少年、竜堂終とはおれのことだぜ」 「本名をいっちゃったら謎の美少年にならないよ、兄さん」 「そうか、そうだな。あー、前言撤回、いまのは全部でたらめ。忘れて下さい。忘れなさい。忘れるんだ、いいな?」  忘れるというより、最初から記憶する気力もなさそうであった。竜が猛威をふるって人工物を破壊しつくした直後、人間たちは底しれぬ敗北感と畏怖に打ちのめされ、虚脱してしまうようであった。文明や技術や軍事力に、何の意味があるというのであろう。ひとたび自然の精霊が怒りを発したとき、水と空気を汚染させ資源を堀りあさり、大地を切りきざんで平然としている人間どもは、なす術を知らないように見えるのだった。竜堂・鳥羽連合軍がメインゲートから出ていくとき、とうとう誰にもとがめられなかった。  ゲートを出ると、茉理は公衆電話で、共和学院の火災もおさまり、何とか鳥羽家も類焼せずにすんだことをたしかめた。両親もまったく無事であることを確認して、茉理は、腹をすかし男どもに笑いかけた。 「さあ、じゃ、みんな、おうちに帰りましょ」  こうして、世界一の経済大国の首都でタンク・チェイスを演じたあげく、世界の正義と自由を守るアメリカ軍の基地を破壊してしまった兇悪な人類の敵たちは、腹がへったの眠たいのと勝手なことをほざきながら、中野区の悪の本拠へと帰っていくのであった。       ㈽  完全に夜が明けた。嵐は去り、夏の燦燗《さんらん》たる陽光とどもに、平穏さがもどってきた。一時は多摩地区二〇都市をのみこむかと思われた横田基地の猛火も、常識はずれの豪雨によって消えてしまい、地にあふれた水もひいて、すべては熱帯夜の悪夢であったかと思われるほどだ。  千代田区永田町の首相官邸では、徹夜で心身を酷使しつづけた官僚たちが、疲労と無力感にさいなまれて、ぼうっと床にすわりこんでいた。そこヘスリッパを鳴らして元気よく出現したのは首相だった。熟睡できたらしく、撥刺《はつらつ》としている。足どりも軽い。あわてて起《た》ちあがる官僚たちを見まわして、ほがらかに首相は尋ねた。 「おはよう、官房長官はどうしたんかね?」 「疲れて眠っておいでです」  秘書官の返答を受けて、首相は、こまったように両手をひろげてみせた。 「何だ、しようがないねえ。政治家の財産は健康と体力だよ。これが正しい判断力をささえるんだよ。ナポレオンだって、体調が悪かったからワーテルローで負けてしまったんだからねえ」 「…………」 「まあしかたないね。眠らせておいてあげなさい。ところで、昨夜の事件で、どのていどの損害が出たか、調査はすんだかね」 「いま計算中です」 「はやく計算してほしいね。具体的な数字で金額を出してくれたまえよ。やっぱし数字をきちんとおさえとかないと、あとでこまるからねえ。私に大蔵大臣や総理大臣がつとまるのも、数字をいつもきちんとおさえているからだよ」  政治献金やリベートについて質問されたときには、「秘書にまかせきりでよくわかりません」としか答えない人物とは、とても思われない台詞《せりふ》だった。  とにかくも首相官邸が活動を開始すると、東京に駐在する各国の外交機関も動きはじめた。仲よく港区内の一等地に門をかまえているアメリカ合衆国とソビエト連邦の大使館では、大使が自ら受話器をとって、尊敬すべきライバルと直接、通話している。アメリカ大使が、一連の事件に関して、ソ連がわが中立を守り不干渉の態度を維持したことに、ていねいに礼を述べた。ソ連大使は、アメリカの施設が不幸な災厄のために損害をこうむったことに、なぐさめの言葉を発し、できることがあれば協力すると申し出た。ちなみに、副音声による彼らの精神的会話はつぎのようなものである。 「ふん、ウクライナの炭坑夫の無教養な小せがれが、一人前に外交官づらしおって。ロシアみたいな未開の国だから、お前なんぞに大使がつとまるのだ。さっさと故郷のど田舎《いなか》へ帰って、チェルノブイリの放射能に汚染された土をほり返し、サトウダイコンでも栽培していろ。それが、お前には似合《にあい》ってものだ。わかったか、色情狂のウォッカ中毒の社会不適応者めが」 「へん、何がボストンの名家の出身じゃ。ハーバード大学でフットボールやって前歯を折ったのが、そないにえらいんかい。国務省内の勢力あらそいに負けて、極東に島流しくらった敗残者やないけ。ボストンの夏と日本の夏と、気候風土の差もよう知らんと、水虫つくって難儀《なんぎ》しとるのん、ちゃあんとわかっとるんじゃ。エイズ性水虫にでも感染せんうちに、はよ去《い》にさらせ、えせインテリめが」  だが、ふたりとも、偉大な国家の有能な外交官であるので、本音《ほんね》まるだしで相手をののしるなどという下品なことは、とうていできなかった。ふたりはかなり長い間、礼儀ただしい会話をつづけた。相手が電話を切った後、思いきり受話器をたたきつけてやろうと考えていたのだが、たがいに切ろうとしないため、延々と会話はつづき、ストレスはたまっていくのであった。  東京のお隣り、埼玉県草加市では、風と雨の一夜が明けて、「やれやれ、大したこともなくてよかった」と人々が胸をなでおろしていた。道路の低いところに水がたまったぐらいのことはしかたない。  警視庁つとめの虹川氏は、徹夜勤務を終えてわが家にもどってきた。両親が亡くなってから、帰りを迎えてくれる家族もいないが、住みなれたわが家にはちがいない。 「また夜勤ですか、ご苦労さんです」  などと善意に満ちた挨拶をしてくれる近所の人に、適当に返事をしながら玄関のドアをあける。シャワーでもあびてベッドへ転がりこもうと考え、ネクタイをほどきかけたところへ、来訪者がやってきた。 「虹川さんや、ご在宅かね。道に迷った旅人が宿を求めとるだがねえ」 「やっぱり来やがったか」  虹川は苦笑した。玄関のポーチにたたずんだ水池は、自衛宮の制服のままだったが、汗、埃《ほこり》、川水、雨、泥、硝煙、油などにまみれて、お国を守るエリート軍人さんにはとても見えない。 「とにかくあがれ、話はそれからだ」 「すまんが、おれの友達も泊めてやってくれんか」 「何、お前ひとりじゃないのか。友達ってどんな奴だ」 「こいつだ、友達の松永《まつなが》良彦《よしひこ》っていうんだ。ついさっき、道ばたで知りあったんだがな」  水池が片脚の位置を変えると、茶色の毛皮をした雑種の仔犬が小さな姿をあらわし、虹川に短い尾を振ってみせた。 「何が松永だ。お前がすて犬に勝手に名をつけたんだろうが」 「たいせつにあつかってくれよ。日本ではじめて、姓を持った犬だからな」  松永良彦君は、お愛想のつもりか「わん」と鳴いてみせた。大家《おおや》さんは溜息をついた。 「まあいい、はいれ、人目につくとまずい」 「腹もへってる」 「わかったわかった」 「松永は上等の牛肉が好きでな」 「お前はカップラーメンでいいな」 「おいおい、お前さんは徳川綱吉か。犬だけをかわいがるのは人の道にはずれるぞ」  ひとりは警察官、ひとりは自衛官で、ともに体制|擁護《ようご》のエキスバートである。あるはずだが昨夜来の大騒動でまったく解決の努力をしなかったふたりは、事後処理の重大さにも背をむけて、まず自分たちの健康のために、食事と睡眠をとろうとするのだった。彼らが目をさました後、新聞社づとめの蜃海が加わって、それからようやく今後のことについて相談でもはじまるかもしれない。  中野区、哲学堂公園の北にある静かな住宅街に、盛大ないびきの音が流れている。ピアノからフォルテへと変化してはもどるその音は、花井夫人の口から湧《わ》いているのだった。昨夜、帰宅した花井夫人は、国民新聞に匿名の電話をかけて竜堂兄弟のことを密告したあと、蚊取線香と潜望鏡とポテトチップスと缶ビールとを用意して、隣家の竜堂兄弟が帰宅するのを見張っていたのだが、強風と大雨がおさまった後、とうとう眠りこんでしまったのである。窓枠《まどわく》にあごをのせたままなので、いびきが外に流れているというわけであった。  起きだした花井氏が門をあけ、配達されたばかりの新聞を取り出していると、路上にいくつかの人影があらわれた。若い元気な隣人たちだった。 「あ、花井さん、お早うございます」  いちばん常識的な長兄が、常識的な挨拶をしたので、花井氏はあわてて挨拶を返した。すると竜堂家の次男以下も、声をそろえて「おはようございます」と頭をさげた。従姉妹《いとこ》らしい女の子もいる。べつに妻に協力するつもりもないが、花井氏は尋《たず》ねてみた。 「昨晩はディスコにでもお出かけでしたか」  すると長兄が笑って、三男坊と末っ子の頭をかるくこづいた。 「いや、大騒ぎでした。こいつらにあまり夜ふかしさせてはいけないんですけどね。このところ外に出る機会がなくてストレスがたまってたようなので」 「これでしばらくはおとなしくしてると思います」  次男坊が口ぞえした。「ふたりとも何くわぬ表情《かお》でよくいうわね」と、内心で茉理はあきれた。さらにあきれたことに、竜堂家の長男と次男は、意図《いと》的な嘘《うそ》を一言もついているわけではない。具体的な固有名詞を出さないかぎり、一般的な世間話のレベルでおさまってしまうのである。 「じゃあ失礼します」 「失礼しまあす」  もういちど花井氏に挨拶して、竜堂家と鳥羽家の五人は、家にはいっていった。ちょっと変わっているかもしれないが、いまどきめずらしく礼儀正しい明るい兄弟じゃないか、と花井氏は思った。なぜああも妻は彼らを目のかたきにするのだろう。妻のうっとうしい寝姿を想いおこして花井氏は憮然とした。彼の妻が、人類の敵の行動を監硯している正義の戦士であるとは、つゆ知らぬ花井氏であった。  朝の太陽は、早くもぎらつくような光を地上に投げつけてくる。今日も暑い夏の一日になりそうであった。       ㈿  アルプスの万年雪とチューリヒ湖の清例《せいれつ》な水にはさまれた古い美しい都市は、モンスーン気候帯のような高温多湿の夏とは縁がなかった。  日本の午前七時は、この地では前夜の午後一一時である。夕方いったん自分たちの邸宅に引きとった四人姉妹《フォー・シスターズ》の大君《タイクーン》たちは、夕食後ふたたび彼らのオフィスに集まっていた。リアルタイムで、トーキョー・シティと周辺地区の状況が彼らのもとに報告されてくる。いくつもの通信衛星と、それに一〇〇倍する国際電話回線が、つねに彼らの便宜《べんぎ》に供《きょう》せられていた。 「ヨコタ・べースは完全に破壊されました。ホワイト・ドラゴンの出現によって」  うやうやしく報告するタウンゼントの声に、大君《タイクーン》たちは当然のごとくうなずく。ブラック・ドラゴンの再登場をのぞけば、すべて彼らの予定どおりであった。  竜が危険で破壊力に富んだ動物であることを、またしても証明する。これがひとつ。建設以来二〇年をへて老朽化しつつあった横囲基地の諸施設を、費用なしで破却《はきゃく》することができる。これがふたつ。テロリストが日本人であることはたしかであるので、事件に関する日本政府の責任を追及することができる。これがみっつ。それにともない、横田基地の再建費用、おそらく五○○○億エンにも達するであろうが、これを全額、日本に負担させ、その金力をしぼりあげる。これがよっつ。職業倫理的に問題が多かったマクマホン中将を消去し、極東アメリカ軍の人事を粛正する。これがいつつ。大君《タイクーン》たちの一石は五鳥を地に落としたのである。もっとも、正確には四羽半かもしれなかった。 「それにしてもブラック・ドラゴンが出現するとはな。これで第一の目的は中途半端に終わってしまった」  わずかに歎声のひびきをまじえてひとりがつぶやくと、他のひとりが受けた。 「ドラゴンをもってドラゴンを制す。ランズデールとやらいう女が先ほど電話でいっておったが、たしかに、凡人には思いもつかぬやりくちだな」 「もし普通の人間であったら、われわれの代理人として育成してやりたいほどだな。悪くともタウンゼントていどにはなるのではないか」  低い笑声が雲となって室内にたゆたった。直立したタウンゼントは愛想笑いを浮かべようとして失敗し、頬を硬ばらせた。大君《タイクーン》のひとりが、やや辛辣《しんらつ》な快感をこめて使用人を見やり、かるく手をあげて、なだめるそぶりをしてみせた。 「冗談だ、そう不快がるな。われわれにそれほどの度胸はない。ドラゴンの頚《くび》に首輪をはめるほどの度胸はな」 「おそれいります。私めの未熟な反応をお赦《ゆる》し下さい」  臣下が主君にむけてつくる笑顔を、タウンゼントはようやく形づくることに成功した。その笑いが消えるより早く、べつの大君が問いかけた。 「ところで、ヨコタ・ベースに保管されていた四個の核弾頭はどうしたのだ?」 「まだ完全に調査がすんではおりませんが、どうやらソニック・ビームを受けて跡形もなく分解されてしまったようでございます」  核兵器もドラゴンには無効というわけか。大君《タイクーン》たちは視線を見かわし、無言のままうなずきあった。  タウンゼントを退室させると、大君《タイクーン》たちはやや姿勢をくつろがせ、会話の調子も心もちくだけたものになった。 「今回、自分たちが利用されたということに、ドラゴンたちは気づくかな」 「青竜王は明哲《めいてつ》、紅竜王は慧敏《けいびん》、気づくかもしれんな。だが、気づかないからといって彼らの不名誉でもあるまい」  自嘲の波動が大君たちの声にこもった。 「われわれの策略は、低次元のものだ。誇る価値もない。そのようなことを理解できるほうが、むしろ恥だろうて。ふん、一〇〇億ドルの、一兆エンのと、卑小なことよ」  静けさの水紋が広がってはじけると、べつの話題が持ち出された。 「例のランズデールという女、このまま対ドラゴンの実戦指揮をゆだねておいてよいものかな。他の者に替えてみるのも一考の余地ありと思うが……」 「私はいまのままでよかろうと思うが」 「私も同感だ。報復の念は才能の不足をしばしばおぎなうものだ。それに失敗したところでさほど支障はない。支障があるとすれば、いずれあの方からご連絡があろう」  あの方、という一語が出ると、大君《タイクーン》たちの間に厳《おご》そかと称してよいほどの雰囲気がただよった。人の目に見えぬ真の文配者が、その場に実在するかのように、彼らはうやうやしく沈黙し、畏怖《いふ》に打たれて頭《こうべ》をさげるかに見えたのである。                                   〈了) [#改ページ]  この物語はあくまでフィクションであり、現実の事 件・団体・個人などとは無関係であることを、とくに お断わりしておきます。 [#改ページ]   竜堂兄弟座談会 続 みんな、ジャスミン・ティーと月餅《ユエビン》はいきわたりましたね。 余 いきわたったよ。 続 それでは伝統ある竜堂家の座談会を開きたいと思います。 終 まだ二回めなのに、何が伝統だよ。 続 レトリックというものを理解できないような人は、だまってらっしゃい。 始 コホン(せきばらい)。 続 ほら、しかられたじゃありませんか。まじめにやりましょう。ええと、「創竜伝」第三巻、一九八八年のうちに出ましたね。 余 出たね。 始 出たな。 終 それも十一月に。はっきりいって誰も信じてなかった。 余 出版社は信じてたよ。 終 信じたがってただけだって。 始 作者からして、むりむりといってたからな。 余 誰が書いたんだろうね(笑)。 続 一〇日間、ホテルに缶諾《かんづめ》になってた人でしょ。 終 謎の竜堂始氏だよな(笑)。 余 なに、それ? 終 だからさ、そのホテルに泊まってることが他の出版社にばれちゃいけないってんで偽名を使わせたんだ、講談社が。 余 それで兄さんの名を使ったわけか。 続 で、兄さんは、ちょっとご機嫌が悪いんです。 始 おれは作者より一〇歳以上も若い! 続 脚もずっと長いし(笑)。でもまあ、そのおかげで第三巻がきちんと予定どおり出たんですから。 終 でも予定どおり出なくても、べつに作者は困らないんだろ。 続 出版社が困るんです。だいたい、原稿を遅らせてえらそうにしているものじゃありません。イラストの天野さんにだって、えらいご迷惑をおかけしたんですからね。缶詰の場所だって、ホテルだからよかったようなものの、まかりまちがえば音羽監獄《おとわかんごく》に入れられてたかもしれないんですから。 余 音羽監獄って? 始 講談社ビルの裏手にある別館でな、古い洋館ふうの建物なんだ。 余 すてきそうじゃない。 終 余、お前は甘いっ。そう思ってつれこまれて泣いた作家が何人もいるのだ! 続 書けばかならずベストセラーという有名作家が、今年の夏、そこにいれられたんです。何とトイレを改造したせまい部屋で、猛暑のなかクーラーもなく、しかもヤブ蚊が出る。食事も近所のてんやものばかり。 始 こんなところに長居はできぬ、と、必死で原稿を書いて、一日七〇枚。早々にトンズラしたとさ。 余 気の毒だね。いったい誰? 続 だから有名なベストセラー作家です。 終 誰だよう、頭文字だけでも教えろよ。 続 兄さん、お茶をもう一杯どうですか。 始 お、ありがとう。 終 きったねー、ロコツに話をそらしやがんの。 余 でもいいよ、できあがったんだから。 続 そうですね、行方をくらまして他の雑誌に迷惑をかけたとか、結婚記念日も缶詰の最中だったとか、読者の集《つど》いに参加する予定もとりやめになったとか、そんなことは小さなことですね、ふっふっふ。 終 うーん、うらんでるな、相当。 始 ま、しかし、ほんとに本が出て何よりだ。 余 読者の方から、はやく第三巻を出してほしいってお便りを、ずいぶんいただいたものね。 始 それそれ、ちゃんとお礼をいっときなさい。昔はともかく、もうお手紙をいただいても、いちいち返事が出せなくなってしまったからなあ。 終 みんな、ありがとよっ。返事は出せなくても、お便りはみんな読んでるよ。 続 あ、そこは正確にね。ええと、ずいぶんたくさんのお便りをいただいたなかに、一通だけ、差出人の住所氏名がまったく書かれていない封書がありました。残念ですが、作者は、匿名で郵送されてきた手紙は、いっさい読まない主義です。この封書は、開封しないまま保管してありますので、お心あたりの方は、講談社あてにご連絡ください。住所氏名を明記してね。 余 ええと、郵便局のスタンプは「笠松」、日付は七月二八日になっています。お心あたりの方、どうぞよろしく。 続 さてと、つぎの話題は……。 終 あっ! 始 どうした、大声だして。 終 こら、余、その月餅、最後に残ったやつ、おれのだぞ。何たって、おれ、変身してエネルギー使ったんだからな。 余 ぼくだって変身したよ。 終 お前は二度めだろ。まったく、人の見せ場、半分とりやがって。 続 兄さん、裁定してください。 始 ほれ、半分ずつ。いやならおれがもらう。 終 わかったよ。だけどあれだな、これで変身せずに取り残されたのは始兄貴だけかあ。 余 地・水・風・火の地竜なの? 始 そうかもしれん、まだよくわからん。 終 地震をおこすんだろ? 始 まだよくわからんといっとろうが。 終 そうか、木竜ってナマズのごとだったのか。 始 お前、今度のお年玉、きれいさっぱりゼロ! 終 あー、金で口封じをすんのかあ。そんならいいや。おれ、今後の展開について重大な秘密を知ってるんだけど、教えてやんない。 続 第五巻が番外篇になるってことなら、ぼくも知ってますよ。 余 タイトルが「花の竜堂組」でしょ? 始 それはガセネタだがな、番外篇ってのは事実だ。ほれ、誰でも知ってるんだから秘密にはならんぞ。 終 そんなことじゃないよ。ふうん、どうやら誰も知らないんだな。そうか、知ってるのは、おれだけか。 続 何をもったいぶってるんです。 終 情報が金になる時代だぜ、兄貴。 始 わかったわかった。お年玉については人道的にとりはからうから、秘密とやらを教えろ。 終 では重大秘密を公開するとしましょうか。諸君、聞いておどろくなよ。おれたちは男ばかり四人兄弟だと思いこんでたけど、じつは……。 余 じつは? 終 何と、余の下に妹がいるんだ。 始 何い!? 続 ちょっと、ほんとですか。 余 ぼくに妹がいるの!? 終 どうだい、重大秘密だろ。ちゃんと名前もわかってる。 続 何ていうんです。 終 始兄貴、お年玉二○パーセントアップでどう? 始 金竜ってのは、金つかいの荒い竜だと思ってたら、金にがめつい竜のことだったらしいな。 余 兄さん、ぼく、妹の名前を知りたい。 始 うーむ、しようがないな、わかった、教えろ、終。 終 では公表します。われわれの妹の名は……。 余 妹の名は? 終 兄たちの名前が、上から順に、始めて続いて終わって余る。そして末の妹の名は……。 始 おい、ちょっと待て! 終 その名もかわいい「未完《みかん》」ちゃん! 余 ……? 続 ……! 始 この野郎は、まったく! 終 あいた! 冗談だよ。わかったから待てっていったんだろ、兄貴は。 始 あやうくひっかかるところだったが、お前があんまりもったいぶってるもんでな。だいたい余が生まれた直後に、両親とも亡くなってるんだ。妹がいるはずがない。 続 兄さん、ぼくから提案します。二〇世紀のうちは、終君のお年玉はずっとゼロにしましよう。 始 よかろう。 終 そりゃひどい、約束がちがう。長兄横暴、次兄冷酷! 始 余を見てみろ、余を。 余 そうか、やっぱり妹いないのか。がっかりだな。 終 う[#「う」に濁点]、悪かった、余。冗談のつもりだったんだけどな。お前を傷つける気はなかったんだ。ゆるせ。 余 うん、もういいよ。始兄さん、続兄さん。お年玉ちゃんと終兄さんにあげてよ。 終 余! お前ってほんとにいい弟だな(感涙にむせぶ)。 余 だから終兄さん、冬休みに一度スケートおごってね、お昼食《ひるね》つきで。 終 …………。 始 どうやら勝負あったな。 続 お茶もお菓子もなくなったし、今回はお開きとしましょう。茉理ちゃんがごちそうつくって待っててくれてますよ。   [#改ページ]  底本     創竜伝3 逆襲の|四兄弟《ドラゴン》 (天野版、CLUMP版)  出版社    株式会社 講談社  発行年月日  1988年11月5日 初版発行 (天野版)  入力者    ネギIRC